非正規労働者めぐろくみこのブログ

非正規労働者が日々感じていることを書いたログです。

葛城事件

昨年、三浦友和の怪演と、後味の悪い救いようのない映画として評判になっていた、映画「葛城事件」をやっとDVDで観ることができた。

監督は、赤堀雅秋で、劇団「THE SHAMPOO HAT]を主催している。
この映画は、最初舞台で上演され、話題になったそうだ。
それがベースとなって映画化されたという。

私はこの監督も劇団も知らなかったが、演劇界では有名な人で、劇団には熱狂的なファンがいるそうだ。

劇作家としては岸田國士戯曲賞を受賞し、初監督作品「その夜の侍」では国内外で高い評価をうけた。
葛城事件は、芝居では「付属池田小事件」を題材にしているが、映画では近年起きた「土浦連続殺傷事件」「秋葉原通り魔事件」「池袋通り魔殺人事件」など6つの事件を題材にして、この映画のストーリーが生まれたという。
これらの事件は、若者が社会に強い怨嗟の感情を持ち、見知らぬ人を無差別に殺傷していく、というのが共通している。

大体のあらすじを紹介するが、ネタバレもあるので、これからDVDを観ようと考えている方は、ここから先は読まないでいただきたい。

主な登場人物は、主人公である葛城家の家長、葛城清に三浦友和。その妻に専業主婦である南果歩
この夫妻の子供の長男が保役に新井浩文
無差別殺傷事件を起こす次男の稔役に若葉竜也
さらにその稔の獄中妻になる田中麗奈である。

TOPシーンでは、家の塀に書かれた「殺人」「人殺し」の落書きを丹念にペンキを塗って消していくシーンから始まる。

そこへ息子の稔の死刑の判決シーンがかぶさる。
引きこもりの稔は、無差別殺人事件を犯し、死刑を宣告された。
これはその無差別殺人を犯した葛城一家の物語である。

家長として抑圧的な態度で家族を支配する横暴な父親である三浦友和
夫婦仲はすでに崩壊し、思考停止状態になった妻、南果歩は家事を放棄し、食事は作らず、カップ麺やコンビニ弁当、出前のピザなどで済ませている。

長男の保は、小さい頃から出来がよかったが、過度の親の期待と人とのコミュニケーションが上手く行かず、リストラされてしまう。
再就職もうまく行かず、それを妻に言えなくて、やがて自殺してしまう。

母親の南果歩は、満たされない結婚生活のはけ口に、次男の稔を溺愛するようになる。
幼い稔は母親の支配下の元で育ち、長ずると今度は母親を支配するようになる。
しかし、現実社会の中では受験に失敗し、アルバイトを転々として、社会に適応出来ないまま引きこもり生活を送っている。
そんな稔を父親は苦々しく思い、母親と一緒に家を出た稔を足蹴にし、首を締める。
子供の躾や育て方が悪いと、母親を平気でビンタする父親である。

暴君という言葉がピッタリな父親だが、これはかつての日本の家の父親像と重なる。
この映画に出てくる登場人物は、決して特異な人たちではなく、どこにでもいるようなごく普通の人達である。

稔は自分の人生に強い不満を持ち、また引きこもりの家の中での父親の振る舞いに逃げ場を失い、追い詰められ、無差別殺人事件を起こしてしまう。

稔の死刑判決から、過去に遡って、この映画のストーリーは描かれ、事件前、事件後のエピソードが交互に描かれる。

この映画の中で、葛城一家と唯一関係を持ち、稔と獄中結婚をした田中麗奈が重要な役どころである。

田中麗奈が稔と結婚しようと決意したのは、死刑廃止論者として稔を救いたいと思ったからだ。

初めて稔と田中麗奈が面会するシーン。
稔はおどおどと、それでいて厚かましく、そして獄中結婚したことに晴れがましい気持ちで、田中麗奈を「順子」と呼び捨てる。
妻の甘い差し入れを「オレ、こういうの、いらないから。しょっぱいものが好きだから。」と言い放ち、「月6万、生活費がかかるから。」とお金を要求する。
自分のためにしてくれた相手の好意に感謝の気持ちはなく、一方的に自分の要求だけを通そうとし、自分の思い通りにならない現実に苛立ち、大声で喚き散らす。
おどおどしながら相手の出方をみながら、自分をどこまで受け入れられるか相手を値踏みするんである。
稔は引きこもりになった若者の典型である。
いつか一発逆転を夢見、しかし本人はなんの努力もせず、そして思い通りに行かないことを社会のせいにする。

私はこういう若者をたくさん知っている。
引きこもり支援のNPO法人に短期間だが手伝いをしていた時に出会った若者たちだったり、自分の身の回りにいる引きこもり本人だったり、その親たちの子供だったりする。
そのNPO法人の人たちも、今思えば十分胡散臭く、偽善的な人たちだった。
この引きこもりの若者たちも、表には出てこないが今の日本の若者たちの姿だ。

面会のシーンで、田中麗奈が稔に尋ねる。
「独居房は暑いですか?」
「冷房とか暖房とかないですよね。」
「私、暑いの苦手だから、早く寒くなればいいなぁ、と。」
自分が結婚した相手がどのような環境で生活しているかぐらい、調べることはできるだろうが、無神経に尋ねる。

さらに、
「あ、昔付き合っていたカレと、6畳一間のアパートの窓を締め切ってセックスして、暑くて暑くて…。」とあけすけに延々と無神経に話す。
極論すれば、稔が無差別殺人を犯したのは、こうした普通に恋人をつくり、アパートでセックスしたりできなかったからだ。
そういう普通の若者たちと同じことが出来ない自分に対する苛立ち、そしてその怒りが自分ではなく他者や社会に向けられたのである。
稔は恋人はおろか、友達さえ作ることができなかった。
100%自分を受け入れ、甘えられる存在は母親しかいないのである。
そして、母親が息子を溺愛するのは、本当はその子供を愛しているのではなく、その子供の先の自分自身を愛しているにすぎず、そのことを子供は知っている。
こうした稔の気落ちを田中麗奈は理解することが出来ない。
相手の気持ちを理解できない人間が、どうして相手を愛することができるだろうか。
だから面会の最後に、田中麗奈に「私はあなたを愛します。」と監督はわざと言わせるのである。
稔は最後にこの妻さえ、拒絶するが、ここに今の時代の若者の人間関係をうまく築けない様子が描かれている。

長男の自死と、稔の犯した罪で、母親の南果歩はとうとう精神を壊し、車椅子生活になって療養所暮らしとなる。
そこへ田中麗奈が訪れる。
義母である南果歩にとうとうと死刑廃止論を述べると、「ミンミンミンミン、蝉がうるさいわ」と言う。
田中麗奈の独りよがりで思い上がった偽善を、精神の壊れた母親は直感的に見抜いているのだ。
100%の無関心より、中途半端な好奇心や同情の方が始末が悪く、残酷ではないだろうか。

田中麗奈は、「稔さんの過去を知りたい」と父親の三浦友和の元を訪ねる。
2人でスナックに行き、回りの客から嫌がられながら三浦友和が「三年目の浮気」を歌い、田酔して杖を落とし、ころんでしまう。
この三浦友和の壊れっぷりと黄昏ぶりが、なんとも陰惨である。

死刑はすでに確定しているが、それでも父親である三浦友和田中麗奈に、
「死刑になればあいつの思うツボだ。
やはり殺さないでほしい。
生きることは苦しいことだ。
だから生きる苦しみをあいつに味あわせてやりたい。」
と酔って言う。
不甲斐なく、だらしのない息子が犯した事件がどうにもやりきれないが、それでも稔の弱く幼い精神や心を思うと憐れに思う、これが親心だろう。
また、ここには死刑制度に対する監督の問いかけも感じられる。

稔は早く死刑を執行してほしいと、田中麗奈に頼む。
それは稔の弱さにほかならず、死の恐怖に耐えて、毎日を送ることができないからだ。

そして、死刑は本人の希望どうり執行された。
死刑執行を伝えに来た田中麗奈三浦友和は、
「人を3人殺したら、オレと結婚して家族になってくれるか。」
田中麗奈を襲おうとする。
すると、
「ふざけないでよ。あなた、それでも人間ですか。」と田中麗奈に拒絶される。
この田中麗奈の一喝がいい。
田中麗奈はこのセリフを言うと、腰が抜けて立ち上がることができなかったと言う。

そして、この映画のラスト。
三浦友和が独りでとろろそばをすすっている。
ふと思いついて、電気コードを持ち出し、新築の時に植えたみかんの木で首吊り自殺をはかる。
やがてドスンと音がして、コードが外れる。
そして、三浦友和は何事もなかったように、とろろそばをすすって終わる。

死のうとした人間が、死にきれず、何事もなかったかのようにとろろそばをすすっている。
ここになにか生きることの滑稽さ、おかしさ、ユーモアさえ感じる。
何事もなかったかのようにまた食べ続ける、ということで生がつながっていくこと、生き続ける、ということを暗示している。

この映画は、今までのホームドラマやノンフィクションのように、家長が抑圧的に家族を支配し、それによって家庭が崩壊していくさまを描いた映画ではない。
また、家父長制による家族の崩壊を社会学的に捉えて論じる映画でもない。

ヒザの抜けたズボン。
センスの悪い安物のシャツ。
無精髭とうすくなり、白いものが目立ち始めたボサボサの頭髪。
醜く太って弛緩した身体。
妻からは「あんたなんか大嫌い。ホントは最初から好きじゃなかったのよ。」と拒絶され、行きつけのスナックでは常連客に絡んで、ママからは「もう来ないでちょうだい。」と言われる。
長年通っていた中華料理店の料理が気に入らないと「店長を呼べ」と店員に意見して、その場の雰囲気を台無しにする。
どこへ行っても嫌われているんである。

しかし、最後のシーンで自殺を試みて死にきれなかった三浦友和がとろろそばをすすることによって、この映画のテーマが浮かび上がってくる。
それは「生きる」ということである。

生きる、ということは時にみじめでみっともなく醜いものだ。
しかし、そこから逃げずに人のせいにせず生き抜け、ということを日本のかつての昭和の父親の典型として、醜く年を取った三浦友和に演じさせることによって、逆説的に伝えたかったのではないか。
この映画は、主役を一家離散した父親である三浦友和にしたところに、監督の着眼点のユニークさ、面白さがある。

だから、この映画を見終わった観客が、暗くて救いようがなく後味の悪い映画だ、と感想を述べるのは当たり前のことなのだ。
監督はそういう映画を作ろうと確信犯的に計算したのだ。
そしてその試みは成功したように思われる。

キャスト全部が監督のセンスだと思うが、そのキャストが全部いい。
映画の中でそれぞれがそれぞれの人生を生きている。
さらに三浦友和はこの映画で、高崎映画祭、東京スポーツ映画大賞、日本インターネット映画大賞、ヨコハマ映画祭報知映画賞の5つの映画祭でそれぞれ主演男優賞を受賞した。

監督の生き抜け、というメッセージに、ではどのように、ということを誰も知らないし、誰からも教えてもらえない。
答えはそれぞれ自分で探すしかない。

プレミアムフライデー

「残業時間上限が100時間が妥当」とか経団連の会長が言っているが、一般の労働者のほとんどは「ふざけるな」と思っている。

プレミアムフライデーとか言って、月末の金曜は3時に退社して消費を喚起させようというのが狙いらしいが、実際に本当に帰った人は3パーセントぐらいだったそうだ。
これは会社の規模と比例していて、大きい会社ほど早く帰れるが、末端の中小、零細企業に勤めている人は帰れるわけがない。
そして、ネットを見ていたら残業をする理由は「残業代がほしいから」「仕事が終わらないから」である。
いくら金曜に早く帰るように言っても、残業代はもらえない、仕事も終わらないので、帰れないのである。
さらに正社員ならいざしらず、非正規労働者は3時に帰ったらその分時給は支払われないので、帰るわけにはいかない。

今の清掃のテナントビルは、1階から6階まであり、朝6時半から10時までである。
そして、各階に会社が入っているが、この各階の会社はどう考えても全部ブラックである。

テナントビルは、大きなターミナル駅から徒歩数分の大通りから一本入ったところにあり、わりと大きなビルなので、賃料もそれなりにすると思われる。
入っている企業は知名度のある企業であったり、ゲームソフトを制作している会社であったりする。

ある階の会社は建築現場の作業員の派遣をしているらしい。
だから朝6時半には土木作業員の服装をした作業員が続々と来社してくる。
派遣社員がきて、その日の作業現場をこの会社の社員が斡旋している。
そのため社員が朝6時半以前には会社に詰めているらしいが、そのフロアの掃除機かけをしているもう一人の清掃の人に聞くと、よくフロアの奥の方で寝ているそうだ。
常に泊まり込みの社員がいて、さらに男性トイレには大型の洗濯機が置いてあり、たまに洗濯もしているらしい。
全員が泊りがけで仕事をしているわけではないが、やはり労働時間に負担のかかっている社員はいるんである。

他の階も似たりよったりで、よく奥の会議室で寝ている人がいるという。

ビルが大きいので、トイレもゆったりと作られている。
そして、そのトイレの洗面台で泊りがけの社員が顔を洗ったリ歯を磨いたり、髭をそっていたりする。
他の階では、備え付けのハンドソープで髪の毛を洗っているので、洗面台がハンドソープで汚れている。
中国にいた頃、よく高級スーパーのトイレの洗面台で髪の毛を洗っている女の人がいたが、気がついたら日本も中国並みになったのだろうか。
その頃の中国は、ガス、水道がまだ各家庭に整備されていなかったので、そういう公共の施設で平気で洗濯や洗髪をしていたりした。

社員全員が長時間労働をしているわけではないが、ある一定の社員はやはりブラックな働き方をしている。
これが日本の企業の実態だと思う。
仕事が終わらないのか、人が足りないのか、生産性が低いのか、社員の仕事の配分に偏りがある、ということなのか。
経営者が無言のうちに労働者に長時間労働を強いているのは、労働者が長時間労働に異を唱えないことをいいことに人件費を抑えたいからだろう。

今の清掃の現場は、どんどん人が辞めていく。
この現場は基本的には2人1組で清掃をしていく現場で、シルバー人材センターから紹介されたサキタさんが辞めた後、60代の小柄な女性の新井さんが来たが、彼女も2月3日に白内障の手術のために辞めてしまった。
本当は春先に手術する予定だったので、それまではこの現場にいる予定だったが、思ったより症状が進んでいたので、これ幸いと辞めてしまったのだ。

新井さんが辞めた後、すぐに求人を出したが、応募がなかった。
仕方ないので、担当営業の男子社員が掃除にきていたが、用事があったりすると、代務員の女の人が来たりした。
しかし、清掃の現場が増えてきたので、その代務員の人は新しい現場に行き、今度は別の新しい男の人が来るようになった。
この男の人が、40代ぐらいのわりと体格のいい男の人だが、仕事が遅くて気が利かない。
要するに、仕事が出来ないんである。
60代の小柄な女性の新井さんより仕事が遅い。
新井さんはずっと清掃の仕事をしてきたので、仕事の手の抜き方をよく知っており、時間以内に仕事が終わるように仕事をしていた。

他の人に聞くと、その男の人は営業の人でもなく、清掃の仕事をしている人でもなく、本社の内勤の男の人であったらしい。

とうとう現場で人が足りなくなったので、そういう人も派遣して仕事をさせているらしい。
辞めていった新井さんに、営業の男の人は退院したらまた他の現場を紹介したいので連絡してほしい、と言っていた。
新井さんは辞めた清掃会社からも「仕事をしませんか?」と連絡があったという。
私の方にも辞めたスポーツジムの清掃会社の社長から電話があった。
今は清掃の現場は増えていて、人が足りないので、人の取り合いになっている。

今は清掃会社も人手不足だ。

ここ数ヶ月前に本社採用になった中山くんという「ゆとり世代」の30代の青年がいる。
土曜日に行っているテナントビルの清掃の現場で責任者の八田さんが言うには、本社採用になので、これから徐々に中山くんに残業をさせていく方針らしい。
中山くんは、最初は朝7時から4時までこのテナントの現場の仕事で、月曜から金曜日勤務だった。
ところが月に2度、予備校の現場の清掃員が休むので、夕方5時から9時までその現場の仕事をさせるそうだ。
八田さんは軽く、朝7時から夜9時までだから、1日14時間労働ね、と言っていた。
そういう八田さんは、一日8時間働けばたくさんで、給料も生活できるぐらい貰えればよく、1日8時間以上働くのはまっぴらだという。
50代の八田さんの楽しみは休みの日のひとり旅で一泊か日帰りで温泉に行くことである。
本社の営業の人や内勤の人たちもほとんどがブラックで、1日12時間労働しているだろう。

掃除会社もブラックだ。

非正規も人手不足だが、正規社員は少ない人数で仕事を回しているので労働時間が長いのだ。
しかし、正規社員はそんなブラック化した会社でも表面は不満は言わず、会社にしがみついて働いている。
だからプレミアムフライデーなんていうのは絵に書いた餅である。


正規労働者は人手不足なので長時間で働き、一方で非正規労働者がどんどん増えている。
この雇用のアンバランスはなぜ解消できないのだろうか。

プレミアムフライデーを提唱しているのは政府と経団連
言っていることがずれている事に気がついていない。

下り坂をそろそろと下る  平田オリザ

新年は、まとまった時間ができるだろうと思って、たしか反知性主義の本も買ってあったはずだが、実はぜんぜん読書の時間が取れなかった。
反知性主義の本どころか、去年夏頃買った本を今読んでいるありさま。

平田オリザ著の「下り坂をそろそろと下る」(講談社現代新書)は、2016年4月20日に初版が出て、4月27日にはすでに第二版が出ている。
ちょっとした話題作だったのだろうか。

平田オリザは演劇人で、劇団「青年団」を主催し、劇作家としても演劇の芥川賞と呼ばれる岸田國士戯曲賞を受賞、東京芸大大阪大学で教授を勤め、数々の演劇のワークショップを開催している。
さらに、著作も多く、私も何冊かは読んだ記憶がある。

一読すると、内容がどうも散漫で、統一性に欠ける。

まず最初の書き出しは、
「まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている。」である。

これは、平田オリザが敬愛していると思われる司馬遼太郎の、小説「坂の上の雲」の冒頭を真似ている。
坂の上の雲の出だしは、「まことに小さい国が開花期をむかえようとしている」だ。

この小説は不思議な小説で、主人公は正岡子規秋山好古、真之兄弟で、舞台は松山である。
そして、この小説は少し読んだが、読みにくいので読むのをやめてしまった私にしては珍しい小説である。

しかし、出だしの感じからも、この小説の明るい雰囲気や心の中に青空が広がっていくような広々とした気持ちになったのを覚えている。

著者は、「日本は明治近代の成立と戦後復興、高度経済成長という2つの大きな坂を、2つながらみごとに登りきった私たち日本人が、では、その急な坂をどうやってそろりそろりと下って
いけばいいのかを、旅の日記のように記しながら考えていきたい」と書いている。

そして、

    ・日本はもはや工業立国ではないということ。
    ・この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。
    ・日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。

そもそも労働人口の減少というより少子高齢化が進み、労働人口の7割が第三次産業に従事、そして労働者の約4割が非正規労働者なのである。
「日本はもはや成長社会に戻ることはありません。」と断言している。

この本の主旨はこれでもうすでに言い尽くされている、と言っていい。

中を読むと、演劇人であり、大学の教授である平田オリザが、アートによる地方再生や、あるいは高等教育、大学入試改革や、演劇による大学教育まで、いろいろな場面でこれからの日本を模索し、さまざまな試みを行っていることが紹介されている。
しかし、私から見れば、今の日本は労働者の約4割が非正規労働者であり、貧困がすべての原因とは言えないが、親によるネグレスト、虐待が後を絶たず、貧困層は増大している。
平田オリザの優れた教育を受けられる恵まれた若者達は、いったいどれくらいいるんだろうか。
今の日本で一番大きな問題は、この格差をどのように埋めていくかで、これはもう政治が何とかするしかない。
その格差を埋めていった先に、平田オリザの試みが活かされるのではないかと思われる。
だから、平田オリザの試みの数々を紹介すればするほど、だんだんテンションが下がっていくのは仕方のないことだ。

しかし一方では、この本の後半で、アジアの中で同じように下り坂を降りていかなければならない韓国について、映画「国際市場で逢いましょう」を引き合いにしている箇所が興味深かった。
映画「国際市場で逢いましょう」は、2014年に韓国で公開され、大ヒットした映画だそうである。
その後、日本でも上映されたらしいが、私は知らなかった。
それで、DVDを借りてみた。

この映画のあらすじはこうである。
朝鮮戦争の1950年、主人公のドクスは北朝鮮興南からの引き上げ船で、ドクスがおんぶしていた末の妹が海に落ちてしまう。
その妹を探すため父が下船したため、妹と父と生き別れてしまう。

当時まだ幼かった長男のドクスは、父から「お前がこれから家長となって家族を守れ」と言われる。
この映画は、その言葉を守り、釜山の国際市場(日本のアメ横のような所)で小さな店を守りながら父を待つ、ドクスという名も無き男の人生を描いている。
ドクスは家計を支えるため、大学進学をあきらめ、西ドイツへ炭鉱労働者として出稼ぎにいき、のちに妻となる韓国人女性と出会い、韓国に帰ってから2人は結婚する。

やがてベトナム戦争が始まると、韓国も参戦し、今度は妹の結婚費用のためにベトナムへ出稼ぎに行く。

平田オリザの説明では「1960年代、外貨獲得のため、出稼ぎ労働者として海外へ進出し」「過酷な労働輸出で得た外貨が韓国の工業化の原資となった」のだという。

ドクスはベトナムで足を負傷し、そのために足を引きずるようになったが、何とか帰国することができた。
やがて、ドクスも年を取り、子どもたちも大きくなった。
国際市場は再開発地区となり、店の立ち退きを要請されるが、ドクスは周囲の反対の声を聞かず、店を手放そうとしなかった。
それは、密かに生き別れになった父を待っているからである。

その後、テレビ番組を通じて、船から落ちた妹と再会したことでドクスは気持ちのケリが付き、店を手放すことを決意する。

この映画は、1人の韓国人の人生を描きながら、一方では韓国の現代史を描いている側面もある。
この映画を見た多くの韓国人は、そこに自分の人生を重ね合わせ、そして多くの共感を得ることが出来たので、大ヒットしたのだろう。

歴史的な出来事や著名な人物が出てきたり、いろいろなエピソードをつなぎながら、悲惨なシーンや残酷なシーンも少なくないが、韓国人の明るさやバイタリティーや強さが映画によく出ている。
長い映画だったが、途中ダレるところがなく全く飽きることがなかった。

また、カメラワークが独特で、窓の外の景色が映し出されて、ぐるっと廻ると景色の色とか景観が変化して、時間経過を表している。
そして、そこに映し出された景色は、日本の景色と全く遜色のない高層ビル群や高速道路が走っている現代の韓国の姿である。

平田オリザが書いているように、韓国はもうすでに先進国なのである。

そして、映画のラストでは、再会した妹や、親戚一同が集まる。
皆、豊かで幸せになっているところが救いだ。

最後に主人公が亡き父に向かって、「お父さんの言いつけを守って、家族を守ったけど、でもつらかった。」とはじめて父にだけ本心を打ち明けるところにホロリとした。

韓国は日本と同じ家父長制で、父は家族の中心で、絶対的な存在であり、そして家族を守るべき強い存在でなければならない。
この言葉に、韓国も日本と同じように強い父、という立場から降りて、あるいは上り坂から下り坂へ降りていく時代に差し掛かっている、ということを暗示しているような気がする。

最後に平田オリザは、下り坂を降りるのは悲しいことだが、我々日本人はその悲しみに耐えて行かなければならない、と書いている。

2017年2月11日の東京新聞で、上野千鶴子が、「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです」と述べている。
そして、「みんな平等に緩やかに貧しくなっていけばいい」という。
「国民負担を増やし、分配機能を強化して、社会民主主義的な方向を目指」せばいいのだ。

だからいきなり飛躍すれば、原発もオリンピックも必要ないんである。

この前の国会では山本太郎議員が、安倍首相にこのように質問していた。

「総理、あなたがこの国の総理でいる限り、この国の未来は持ちません。
最後にお伺いします。
総理、いつ総理の座から降りていただけるのでしょうか?」

この発言は、審議を重ね、国会の議事録から削除されるようである。

この発言を日本のマスメディアはどこも報道せず、日本はすでに地獄の1丁目1番地に向かっている。

聲の形

お正月に、場末感漂う池袋の映画館で「聲の形」というアニメ映画を観た。
この映画は、「少年マガジン」に連載され、話題になった漫画である。
マンガ「聲の形」の作者は大今良時で、映画監督はを「けいおん!」などを手掛けた山田尚子である。
余談だが、今マスコミで賑わしている妻を殺害した容疑で話題になっている講談社の編集次長の男は、この「聲の形」の担当編集者だったという。
アニメファンや漫画ファンならこの漫画は馴染み深いだろうが、私はあまり良く知らなかった。
この漫画は「この漫画がすごい」とか「マンガ大賞」なども受賞し、高い評価を得ているらしい。

物語は、小学生だった主人公の石田将也は、耳の聞こえない転校生西宮硝子に興味を持つが、それがだんだんエスカレートしていく。
クラスでは、最初は新しい転校生に皆気を使うが、そのうち耳の聞こえない硝子の存在がクラスメートの間では疎ましくなっていき、クラスの中で孤立していく。
硝子はクラスの中では浮いた存在になり、女子の些細なイジメや将也の過剰な硝子のからかいに、クラスメートは黙認し、誰も助けようとはしなかった。
そんな雰囲気の中で、硝子は何回も補聴器を壊され、硝子の母親が学校に連絡する。

クラスの内情に疎い先生は、その原因を将也のせいだと断定してしまう。
障害者や自分たちとは異質なものに対する不寛容、あるいは無視、無関心ということによって硝子は傷つくが、それは結局転校と言う形で終止符が打たれる。
そして今度は将也がイジメを受けるようになる。

小学校を卒業した将也は中学、高校へと進んでも、クラスメイトたちの無視という形でイジメの対象になってしまった。
将也は学校に馴染めず、心を閉ざしてしまう。
今の学校は、上の学校に行ってもクラスカーストはそのまま引き継がれるらしい。

これが今の学校生活のリアルなんだろう。
こういうふうに漠然とクラスの空気や雰囲気が生まれ、それにほとんどの生徒が流されていく。
今の生徒たちにとって、学校や先生というのはほとんど意味がなく、教育の場として機能していないのではないかとさえ思ってしまう。
教育や学校生活に対して、一番絶望しているのは実は生徒たちかもしれない。
そして、その現実に大人たちは全く気がついていないのか。
この漫画が多くの若い人たちに受け入れられているのは、そうした学校生活が的確に描かれているからだろう。

高校生になった将也は、硝子に対する自分の無神経な振る舞いや無理解を悔いるようになる。
そして同じように、手を差し伸べることができなかったことを悔いる女子もいた。

将也はその後、別の学校に通っている硝子に再会し、物語は思わぬ方向に進んでいく。

今の世の中は、自分と異質なものや弱者を平気で叩く世の中である。
無関心を装いながら、実は人のことが気になって仕方がない。
そして、自分よりいい思いをしている人が許せない。

自分と違う他者を思いやる気持ち、理解しようとする心、分かり合えなくてもわかり合いたいと思う気持ちは、実は誰でももっているのかもしれない。
特に子供から大人になる間の子どもたちの心はまだ柔らかく、そのために時に人を傷つけ、そして自分自身も傷ついてしまう。
そういうデリケートな気持ちが細やかに描かれている。

今のアニメには必ずイジメ、引きこもり、自殺が出てくる。
これが今の学生たちの日常なのだろうか。

このアニメに出てくる将也の家族と硝子の家族は、共に母子家庭である。
窪美澄の小説に登場する家庭も、父親不在かシングルマザーの家庭になっている。
これは偶然ではなく、日本の家庭では父親不在で家庭生活が営まれている、ということなのか、それともそうして家庭環境の方が小説やドラマにしやすい、ということなのか。

この前発表されたキネマ旬報の2016年のベスト1は、「この世界の片隅で」で、一方興行成績1位の「君の名は。」はベスト10にも入っていなかった。
この2作は話題性があり、多くのマスメディアで取り上げられた。
それに比べれば「聲の形」は一部の人達の話題にはなったかもしれないが、作品的には地味だ。

「この世界の片隅で」がベスト1になったのは、作品的に優れていたこともあるだろうが、今の時代が右傾化し、戦前のような雰囲気になっていることへの警鐘の意味があるのかもしれない。
この2作とも映画館で観ることはないだろう。
しかし、この「君の名は。」は、なぜこんなにもヒットしたのか、その理由を知りたいと思う。

そのうちDVD化されたら、ツタヤで借りてみよう。

紅白歌合戦

毎年なんとなく見ている紅白。

今回もきちんと全部見ているわけではないが、去年の紅白は散漫な印象だった。
ネットではグダグダ、とも酷評されている。

ネットで見るスポーツ紙の記事を見ると酷評はせず、無難に書いているが、例年に比べるとあんまりいい出来とは思われない。
twitterでさらにみんなの評判を見ると、やっぱり散漫な出来、相葉くんの司会がぎこちない、某芸能事務所のメンバーばかりが目立つとか演出意図が不明、投票結果の集計が不明など、散々な評価。

司会の嵐の相葉くんは緊張しすぎていて、話を飛ばしていたし、女優と思われる女性の司会者もぎこちなく文章が棒読み。
紅白の司会には、女優が抜擢されるケースが多い。
たとえば仲間由紀恵だったり、綾瀬はるかだったり、吉高由里子などが司会をやっていた。
女優だから仕方ないが、あんまりうまくない。
綾瀬はるかなどは曲の紹介の前に泣き出してしまった。
それでも紅白の場にふさわしい女優としての風格があった。
今回の女性司会者にはそうした風格もなく、なぜこの人が?と思ってしまう。
大体、この女性司会者も女優としては注目されているのだろうが、私はこの人を知らない。

総合司会者のアナウンサーだけがしっかり司会を進行していたんだけど、でもちょっと地味だったような。

有働アナはNHKのアナウンサーにしては華やかで、さらに司会としてもスキルが高いので、安心して見ていられたのに、とつい前の紅白と比較してしまう。

そして演出も凝り過ぎて、意味不明と酷評されている。

特にタモリマツコ・デラックスがよくわからないとネットでは言われている。

タモリとマツコは、紅白の入り口で呼び止められたり、関係者以外は入れない楽屋や通路などを2人でウロウロする。
さらに、紅白の会場に座席まで用意されていたのに、その席に最後まで座ることはなかった。

これでは視聴者はなんなのかわからないだろう。

これは多分、紅白歌合戦という一つの物語があって、その物語の外側にタモリマツコ・デラックスがいて、外側から紅白の物語を視聴者に見せている、という設定なのではないかと思う。
だから、最後まで紅白の座席に座ることはなく、マツコが最後に「これなら家で寝転がっていたほうが良かった。」というのがオチなんである。
これはこれで凝った作りになっていたが、それが視聴者には伝わらなかったのだろう。
タモリとマツコはこの演出意図がわかっていたのかは不明。

さらに細かいところでシンゴジラが出てきたり、いろいろ凝った演出があったようだが、そういうところは見ていなかった。

紅白歌合戦という番組は、毎年その番組の企画意図があって、さらに演出意図があり、出場歌手がいて番組が進行する。
だから、司会者はその意図を読み取って、なぜこのタイミングでこの人物や演出がなされているのかを理解していないと、アクシデントがあった時にうまく対処できない。
それが相葉くんには理解できていなかったので、何かちょっとした行き違いで、「えっ?何なに?」とパニクってしまったんだろう。
女性司会者はその企画や演出意図が全く理解できていないので、司会進行だけを棒読みで読んでいただけなのだろう。

紅白はそんなに凝った演出などしなくてもいいと思う。
そして、凝った演出を理解できる人たちばかりではない。

特にPerfumeの歌は残念で、せっかくの歌もよく聞こえず、そして3人の踊りもバックのCGがうるさいのでよくわからない。
これならバックを黒にして、3人にスポットライトを当てたほうが、彼女たちのパフォーマンスがよくわかってよかったとさえ思うが、ネットでは演出が素晴らしい、と書いてあった。
人それぞれ、受け取り方はさまざまなんである。

男でよかったのは星野源で、歌も大ヒットして本人も紅白の舞台に立てたのが嬉しくてたまらない、という感じがよく分かった。

女で良かったの宇多田ヒカル
宇多田ヒカルは、紅白のステージではなく、ロンドンの録音スタジオで1人でヘッドフォンをつけて歌っていた。
服装も特別ドレスアップしている、というわけでもなかった。

宇多田ヒカルの歌った「花束を君に」という曲はNHKの「とと姉ちゃん」のテーマ曲だった。
ほとんど毎日見ていたのでよく知っている曲だ。
この曲は宇多田の母親で、演歌歌手だった藤圭子のために書かれた曲だという。
藤圭子は数年前に亡くなったそうだ。
「花束」は亡くなった人に捧げる花なのか。
この歌には、今はなき人に対する想いや後悔、喪失感や悼む気持ちが強く表れていて、いい曲だと思う。
藤圭子もその昔、紅白のステージに立ったことがあったのではないか。
藤圭子を育てた関係者はまだ生きているんだろうか。
そして、もしまだその関係者がいるとしたら、藤圭子のその娘がまた同じ紅白に出場する姿を見て、なんと思っただろうか。
藤圭子は昭和の一時代を代表するような演歌歌手だったようだが、案外早く引退してしまった。
藤圭子は結局、宇多田ヒカルという平成の不世出の歌手を生み出すためにこの世に生まれてきたんだろうか。

作曲家の小室哲哉宇多田ヒカルが出てきた時、自分の時代は終わった、と思ったそうだ。

CMで流れる彼女の歌を聞くと、この人には心の中に闇があって、それがきっと若い人たちにはわかるのではないか、という気がする。

紅白の華やかな舞台装置やバックダンサーの前で歌う曲よりも、ロンドンの録音スタジオでひっそりと1人で歌う宇多田ヒカルの曲が一番良かったのはなんだか皮肉な話だ。

紅白は、NHKでしか見られない歌手や曲が選ばれればいいと思う。
NHKは民放のように視聴率など気にしなくていいのだ。
1年の締めくくりに、ああこの曲を聞いてよかった、と思うような曲が選ばれてほしい。
前はそういった歌手や歌が選ばれていたように思う。
たとえば美輪明宏であったり、「千の風になって」の歌であったり、坂本九平井堅の「見上げてごらん夜の星を」のコラボ曲であったり。

本当は、最後に去年暮れに解散が決まったSMAPが大トリで歌ってほしかった。
SMAPの曲はみんなが知っていて、みんなが歌える歌だった。
むずかしい曲ではなく、そしてみんないい曲だった。
嵐の曲は部分的には聞いたことがあっても、嵐のファンでなければ多分知らない曲の方が多いだろう。
しかし、SMAPはもう歌いたくない、と思ったのだから仕方ない。

SMAPがいなくなって、紅白は変わらざるを得ない。
そして、みんなが口ずさめるような曲はもう出てこないのかもしれない。

今のテレビ局は、NHKに限らず一般の視聴者が見たいと思う番組を作ることができない。

たかが紅白だから、特別どうこういうことではないかもしれない。

しかし、NHKはどんどん劣化しているな、ということをつくづく思う紅白だった。

清掃の現場・その後

サキタさんは結局、シルバー人材センターから連絡が来て、1000円で今の現場をやってほしいと言われたが、足が痛いので断り、11月末でやめていった。

そのあと、新井さんという60代前半の主婦の女性が来た。
小柄だが横に広く、本当にどこでもいるようなごく普通の主婦である。
早朝の清掃と、夕方午後4時から8時までの清掃と、ダブルワークである。
早朝は、今の現場の前に10年ほど他の現場で働いてきたが、ビルが解体されるため、この現場に移ってきたのだ。
夕方の現場はもう5年も働いているという。

新井さんはサキタさんの後任なので、同じように掃除機掛けやゴミ出しなどをするが、サキタさんより仕事は早いがやはり時間ギリギリまでかかる。
仕事はあまり早くないが、女の人なので真面目に働く。
同じ仕事をしていても、塩田さんはもっと早くテキパキ働く。
塩田さんも新井さんと同じぐらいの年代に思われ、背丈は同じぐらいだが華奢だからなのか、もっと身軽に動いて掃除機掛けも手早い。
塩田さんは日本を代表するような一流ホテルの客室清掃員を長く勤め、その後今の清掃会社の契約社員になった。
代務員という身分で、清掃の現場で急に休みになった人たちの現場に行って清掃をしたり、営業が新しく取って来た現場に行って清掃の段取りや道具の確認をしたりする。
さらに新しい現場の教育係になり、いろいろ指導を行う。
塩田さんを見ていると、清掃の仕事がこの人にとって天職なのだろうと思わずにはいられない。

新井さんは10年以上清掃の仕事をしていても、見ていると仕事がもたもたした感じだが、塩田さんの仕事ぶりは段取りとか身のこなしに無駄がない。
新井さんのように、結局10年同じ現場の仕事をしていても、掃除のパートのおばちゃんでしかないのと、塩田さんの違いは何なのだろうか。
塩田さんのように一つの仕事をずっと続けることによって、仕事の動作が身体に染み付き、身体に型ができている、というのだろうか。
この型、というのは、たとえばこの道何十年といわれる職人と言われる人たちや伝統芸能とか、あるいは日本古くからある華道や茶道などの道にも通じることなのか。
新井さんはパートでただ言われていることだけをやってきたが、塩田さんは客室清掃員として責任やプライドを持ってずっと仕事をしてきた人の違いだろうか。
塩田さんの年代ならば、そのホテルの正社員だったのではないかと思う。
その差が、型ができるか出来ないかの差なのか。
今はそんなふうに一つの仕事を続けて仕事をする若い人たちが減っている。

もう一つの清掃の現場のテナントビルで、20代前半の腰パンで仕事をしていた正社員の若者は、数ヶ月でやめてしまった。
入ってしばらくたつとだんだん休みがちになり、その後本社の営業部長が呼び出して何回か話をしたようだが、最後に話をした後に自宅に帰ると、「やめさせてほしい」と親が会社に電話を掛けてきたという。
塩田さんはその話をしながら、「いい子だったのに、仕事は続けなくちゃね。」と言っていた。
仕事を続ける、というのが塩田さんの職業観なのだろう。

今の清掃の現場は、月に1度定期清掃を行っていて、共用部分の床や階段、エレベーター回りなどの清掃をするが、その清掃員がどう見ても清掃の仕事を専門にしている人たちに見えない。
1人は30前後で、腰パンで作業ズボンの足元がズルズルしている。
もう一人は40代の中年の男の人だが、この人も仕事の手順や作業道具の使い方を見ていて、とても専門の清掃員という感じがしない。
仕事の仕上がりも、あまりきれいになっていない。
定期清掃の時に担当営業が来て、いろいろ説明していたのを見ると、アルバイトなのかもしれない。

今はどんな現場も上の責任者は正社員でも、下の人間は非正規労働者である。
非正規労働者なので、長くその職場にいて仕事を覚える、ということはない。
居心地が良かったり、時給が高かったり、その人がその現場で働くメリットがあれば続くが、雇用主の都合だったり、本人の都合で簡単に辞めてしまう。
だから仕事が身につかないし、いろんな職場を転々とするようになってしまう。
企業はこれ以上正社員を増やしたくなかったり、雇用の調整弁として派遣や非正規労働者を雇っているので、非正規や派遣で働き続けている人たちは、割り切って働いている。
派遣法が改正され、3年以上同じ職場で働く場合はその職場で正社員にさせなければならないので、雇用期間を最初から3年、と決めている職場も多い。
だから、言われたことだけをする、必要以上のことをしない、仕事を覚えない、あるいは努力しない、無駄な労力をかけない、というところにつながっていく。
非正規労働者が増え、そういう現場ばかりになると、一体日本はどういう国になっていくだろう。

私のような末端の非正規労働者から見ても、労働の現場はどんどんひどくなっている。
安い賃金で非正規労働者を使い捨てにするような働かせをさせているので、一つの仕事を続ける、という気持ちは全くないし、自分の仕事にプライドも持てない。
日々の生活に追われているので、キャリアプランニングをすることが出来ない。
雇用の流動化、というが、非正規労働者や若年層の労働者は雇用はすでに流動化している。
末端労働者の現場では人が定着しないし、すでに雇用は破壊されている。

今日本はものすごい勢いで衰退している。
それにみんな気がついているんだろうか。

清掃の現場

新しいオフィスビルの清掃の現場は、1人現場ではなく、男女1人ずつ、2人で作業する現場である。
朝6時半から10時まで、3時間半だが、短時間の割には仕事量が多い。
最初に説明を受けた営業部員と実際の担当の営業部員が違っていたのだ。
それで、最初の契約内容や作業時間が違う、とクレームをつけて、月曜から金曜まで、6時半から10時までの仕事の内容も変更となった。
曜日によって変則的なので、そういう仕事のやり方はできない、と言ったのだった。

最初に担当営業にクレームを言った時、「そんな短時間の募集では、男の人は来ませんよ。」と、ちょっと嫌味っぽく言うと、営業の田中さんは、「いや、来ますよ」とムキになって言い返したのだった。

募集をかけても、結局来なかったようだ。

仕方ないので、今まで他の現場で清掃をしていた男の人が来た。
サキタさんという、70歳の男の人だ。

前は出版関係のビルの清掃をしていたそうだ。
出版社だから編集者はそんなに早く出社せず、朝7時から10時まで、途中30分くらいは休憩が取れてのんびり仕事が出来たという。
ところがその出版社が引っ越したので、その仕事がなくなった。
が、他の現場の人が怪我をしたのでその現場に手伝いに行ったそうだ。

サキタさんが言うには、
「オレはよぅ、最初シルバー人材センターからこの会社の仕事を紹介されて、時給960円だったんだよ。
 でも最初の現場は身体が楽だったから、960円でいいと思った。
 新しい所を紹介された時に、時給1000円にしてくれ、と言ったら、営業部員が黙っちゃったんだよね。
 で、9日間現場で仕事をしたんだけど、まだ振込されてないから、いくらになったかわかんないんだよ。」
その9日間の短期の仕事が終わって、この現場に派遣されたらしい。
ところがこの現場の仕事は70歳の男の人の仕事にしては結構ハードである。

この現場の仕事もやはり下請けである。
前に下請けをしていた清掃会社は小さい会社で、朝6時ぐらいから2人で清掃をし、さらにその後、清掃会社の社長も出て来て清掃を手伝っていたらしい。
清掃の他にビルの電球交換などもやっていた。

少しのんびり仕事をする人や、年を取った人にはキツイ現場だと思う。
男の人は、月、水、金の3日は3時間半で、3フロアのオフィスの掃除機掛けとフロア内のゴミ集め、さらに机拭き、給湯室のゴミ出し。
フロアは縦にというのか、横にだだっ広く、各机のゴミ箱のゴミ集めも大変で、さらに給湯器には毎日ペットボトル、カン、ビン、燃えないごみ、燃えるゴミなどが大量にでる。
オフィスのフロア内はパソコンやシュレッダー、サーバーなどの電気機器の配線があり、そして各人の机周りや机下には個人の私物や仕事関係の資料などがそこここに置かれ、掃除機掛けも体力勝負である。
広いフロアに長い延長コードをつけて掃除機をかけるが、どこに電気の差込口があるか確認しながらやるので、コードさばきで掃除の時間は10分、20分違うという。
慣れるまでは大変である。
火、木は2フロアのオフィスの掃除機掛けと同じくゴミ出し。
仕事はフロアは違っても、月・水・金と同じである。
そして月から金曜まで1階入り口の共用部分や各階のエレベーターホールの掃除機掛け、入り口エントランスの扉などの清掃、ビル周辺の掃除、最後にゴミ捨てなどがある。

サキタさんは最初来た時から足が痛い、と言っていて、神経痛や膝などに故障があり、歩くことはできるが、日常的に足が痛いそうだ。
だから仕事を始める前に屈伸運動やアキレス腱を伸ばす運動をしたりしていた。
最初の日に仕事を終えると、この仕事はハードで、とても時給960円の仕事ではないと言っていた。
さらに、土曜日も1時間だけ来て、1フロアだけのゴミ出しや共用部分の清掃、ビル周辺の掃除などがあった。

サキタさんは仕事に不満があって、その不満は仕事に対して時給が安すぎること、さらに土曜の仕事が朝6時開始で7時に終了するが、6時に行くために2時間前に早起きするのが無駄だと言っていた。

土曜日に営業の田中さんが来て、仕事の段取りを説明したらしいが、その時に田中さんの上司の大林さんがいたので、時給のことや土曜の仕事などいろいろ意見したらしい。

サキタさんは、
「年金があるから食えるんだけど、暇だし、なにもしないのもいけないから、仕事はしたいんだけど、時給960円は困る。
1000円にしてくれ、と言ってあるの。
とりあえず今月末までやりますよ、とは言ってあるけど、後は相手待ちだね。」
と言う。

確かに年金が出て、ギリギリ生活はできるだろうが、それでも身体が動くうちは働きたい、というのが本音だろう。

清掃の仕事は、「皆が嫌がる汚い仕事」なので、若い人はなかなか集まらない。
こういう仕事をする人たちは、夫が定年退職して一日家にいるのがうっとおしい、というので60代ぐらいの主婦が働いていたりする。
そして、そういう人たちは、子どもたちは独立し、自宅もあり、夫の年金もある。
さらに子供や孫達ののためにいろいろ面倒を見たり、金銭的にも援助したいと考えている。
年に数回遊びに来る孫たちに小遣いをやったり、ごちそうを出したい。
そして、自分の子供達があまりに貧しいことに親は気がついている。
それなりの教育を受けさせ、それなりの会社に勤めているはずなのになんでこんなに貧しいんだろう、と話している年配の人を知っている。
これでは孫達は十分な教育を受けさせることができないのではないか、と思っている。
ある新聞を読んでいたら、高齢で著名な大学の教授だったかが、「子どもたちにはそれなりの大学に行かせて、それなりの大企業に勤めているが、うちに遊びに来るといつも洋服はユニクロを着ている。
お金がないので、普段着はそんなにお金を掛けられないようだが、そんなふうで孫たちに十分な教育を受けさせられるのか、不安だ。」と書いてあった。

清掃の仕事はこういう高齢者が多く、多くはシルバー人材センターから仕事を紹介されて来る。
そういう人たちの時給は950円、960円である。

私がこの清掃会社の仕事を見つけたのはフリーの求人雑誌だった。
そこには時給1100円と書いてあった。

だからこの仕事を始めた頃、大林部長から「時給の話はしないように」と言われていた。
それは、同じ仕事であっても、契約内容がバラバラだったからだ。

その後、サキタさんは今の現場に来て、『時給1000円にしてくれ」と営業に交渉した時、「今まではいくらでしたか?」と聞かれ「960円」と答えると、
「じゃあ、960円ですね。』と言われたらしい。

よく考えてみると、清掃の現場の仕事はそれぞれ違うので、その人の時給で決まるのはおかしい。
結局、なぜそんなことになるかと言えば、この清掃会社が下請け、孫請けの仕事の現場しかないからだろう。

直で仕事を取って来られる会社は、おいしい仕事以外はみんな下請けに丸投げし、その分手数料をかなり抜き、さらにその下請けが自分の利益を先に取るので、結局末端労働者は足元を見られて、安い賃金で働かされる。

清掃の仕事はこうしたシルバー層や非正規労働者によって支えられている。
考えてみると、人をバカにした話である。

サキタさんは確かに老人で、「動作が遅い」と営長の田中さんや仕事を教えていた塩田さんというベテランの清掃の女の人が言っていた。
しかし、サキタさんがなぜこんなに不平不満を言うのか、それはこの会社の田中さんや塩田さんがサキタさんの人格を軽んじ、内心では馬鹿にしていることをサキタさんは敏感に感じているからだろう。
そして、そいういうサキタさんの気持ちを、この清掃会社の人達は気が付いていないのかもしれない。

この清掃会社がなんでいつも下請け、孫請けの仕事しか取って来られないのか。
若い人たちがどんどん辞めていき、ろくな人材がおらず、いつも現場で事故が多いのはなぜなのか。
会社の質は、その会社の業績に端的に現れて、それはその会社の社員の人間の質とどうも比例しているように思う。
しかし、そういうことにこの会社の人たちは決して気がついてはいないんだろう。