非正規労働者めぐろくみこのブログ

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葛城事件

昨年、三浦友和の怪演と、後味の悪い救いようのない映画として評判になっていた、映画「葛城事件」をやっとDVDで観ることができた。

監督は、赤堀雅秋で、劇団「THE SHAMPOO HAT]を主催している。
この映画は、最初舞台で上演され、話題になったそうだ。
それがベースとなって映画化されたという。

私はこの監督も劇団も知らなかったが、演劇界では有名な人で、劇団には熱狂的なファンがいるそうだ。

劇作家としては岸田國士戯曲賞を受賞し、初監督作品「その夜の侍」では国内外で高い評価をうけた。
葛城事件は、芝居では「付属池田小事件」を題材にしているが、映画では近年起きた「土浦連続殺傷事件」「秋葉原通り魔事件」「池袋通り魔殺人事件」など6つの事件を題材にして、この映画のストーリーが生まれたという。
これらの事件は、若者が社会に強い怨嗟の感情を持ち、見知らぬ人を無差別に殺傷していく、というのが共通している。

大体のあらすじを紹介するが、ネタバレもあるので、これからDVDを観ようと考えている方は、ここから先は読まないでいただきたい。

主な登場人物は、主人公である葛城家の家長、葛城清に三浦友和。その妻に専業主婦である南果歩
この夫妻の子供の長男が保役に新井浩文
無差別殺傷事件を起こす次男の稔役に若葉竜也
さらにその稔の獄中妻になる田中麗奈である。

TOPシーンでは、家の塀に書かれた「殺人」「人殺し」の落書きを丹念にペンキを塗って消していくシーンから始まる。

そこへ息子の稔の死刑の判決シーンがかぶさる。
引きこもりの稔は、無差別殺人事件を犯し、死刑を宣告された。
これはその無差別殺人を犯した葛城一家の物語である。

家長として抑圧的な態度で家族を支配する横暴な父親である三浦友和
夫婦仲はすでに崩壊し、思考停止状態になった妻、南果歩は家事を放棄し、食事は作らず、カップ麺やコンビニ弁当、出前のピザなどで済ませている。

長男の保は、小さい頃から出来がよかったが、過度の親の期待と人とのコミュニケーションが上手く行かず、リストラされてしまう。
再就職もうまく行かず、それを妻に言えなくて、やがて自殺してしまう。

母親の南果歩は、満たされない結婚生活のはけ口に、次男の稔を溺愛するようになる。
幼い稔は母親の支配下の元で育ち、長ずると今度は母親を支配するようになる。
しかし、現実社会の中では受験に失敗し、アルバイトを転々として、社会に適応出来ないまま引きこもり生活を送っている。
そんな稔を父親は苦々しく思い、母親と一緒に家を出た稔を足蹴にし、首を締める。
子供の躾や育て方が悪いと、母親を平気でビンタする父親である。

暴君という言葉がピッタリな父親だが、これはかつての日本の家の父親像と重なる。
この映画に出てくる登場人物は、決して特異な人たちではなく、どこにでもいるようなごく普通の人達である。

稔は自分の人生に強い不満を持ち、また引きこもりの家の中での父親の振る舞いに逃げ場を失い、追い詰められ、無差別殺人事件を起こしてしまう。

稔の死刑判決から、過去に遡って、この映画のストーリーは描かれ、事件前、事件後のエピソードが交互に描かれる。

この映画の中で、葛城一家と唯一関係を持ち、稔と獄中結婚をした田中麗奈が重要な役どころである。

田中麗奈が稔と結婚しようと決意したのは、死刑廃止論者として稔を救いたいと思ったからだ。

初めて稔と田中麗奈が面会するシーン。
稔はおどおどと、それでいて厚かましく、そして獄中結婚したことに晴れがましい気持ちで、田中麗奈を「順子」と呼び捨てる。
妻の甘い差し入れを「オレ、こういうの、いらないから。しょっぱいものが好きだから。」と言い放ち、「月6万、生活費がかかるから。」とお金を要求する。
自分のためにしてくれた相手の好意に感謝の気持ちはなく、一方的に自分の要求だけを通そうとし、自分の思い通りにならない現実に苛立ち、大声で喚き散らす。
おどおどしながら相手の出方をみながら、自分をどこまで受け入れられるか相手を値踏みするんである。
稔は引きこもりになった若者の典型である。
いつか一発逆転を夢見、しかし本人はなんの努力もせず、そして思い通りに行かないことを社会のせいにする。

私はこういう若者をたくさん知っている。
引きこもり支援のNPO法人に短期間だが手伝いをしていた時に出会った若者たちだったり、自分の身の回りにいる引きこもり本人だったり、その親たちの子供だったりする。
そのNPO法人の人たちも、今思えば十分胡散臭く、偽善的な人たちだった。
この引きこもりの若者たちも、表には出てこないが今の日本の若者たちの姿だ。

面会のシーンで、田中麗奈が稔に尋ねる。
「独居房は暑いですか?」
「冷房とか暖房とかないですよね。」
「私、暑いの苦手だから、早く寒くなればいいなぁ、と。」
自分が結婚した相手がどのような環境で生活しているかぐらい、調べることはできるだろうが、無神経に尋ねる。

さらに、
「あ、昔付き合っていたカレと、6畳一間のアパートの窓を締め切ってセックスして、暑くて暑くて…。」とあけすけに延々と無神経に話す。
極論すれば、稔が無差別殺人を犯したのは、こうした普通に恋人をつくり、アパートでセックスしたりできなかったからだ。
そういう普通の若者たちと同じことが出来ない自分に対する苛立ち、そしてその怒りが自分ではなく他者や社会に向けられたのである。
稔は恋人はおろか、友達さえ作ることができなかった。
100%自分を受け入れ、甘えられる存在は母親しかいないのである。
そして、母親が息子を溺愛するのは、本当はその子供を愛しているのではなく、その子供の先の自分自身を愛しているにすぎず、そのことを子供は知っている。
こうした稔の気落ちを田中麗奈は理解することが出来ない。
相手の気持ちを理解できない人間が、どうして相手を愛することができるだろうか。
だから面会の最後に、田中麗奈に「私はあなたを愛します。」と監督はわざと言わせるのである。
稔は最後にこの妻さえ、拒絶するが、ここに今の時代の若者の人間関係をうまく築けない様子が描かれている。

長男の自死と、稔の犯した罪で、母親の南果歩はとうとう精神を壊し、車椅子生活になって療養所暮らしとなる。
そこへ田中麗奈が訪れる。
義母である南果歩にとうとうと死刑廃止論を述べると、「ミンミンミンミン、蝉がうるさいわ」と言う。
田中麗奈の独りよがりで思い上がった偽善を、精神の壊れた母親は直感的に見抜いているのだ。
100%の無関心より、中途半端な好奇心や同情の方が始末が悪く、残酷ではないだろうか。

田中麗奈は、「稔さんの過去を知りたい」と父親の三浦友和の元を訪ねる。
2人でスナックに行き、回りの客から嫌がられながら三浦友和が「三年目の浮気」を歌い、田酔して杖を落とし、ころんでしまう。
この三浦友和の壊れっぷりと黄昏ぶりが、なんとも陰惨である。

死刑はすでに確定しているが、それでも父親である三浦友和田中麗奈に、
「死刑になればあいつの思うツボだ。
やはり殺さないでほしい。
生きることは苦しいことだ。
だから生きる苦しみをあいつに味あわせてやりたい。」
と酔って言う。
不甲斐なく、だらしのない息子が犯した事件がどうにもやりきれないが、それでも稔の弱く幼い精神や心を思うと憐れに思う、これが親心だろう。
また、ここには死刑制度に対する監督の問いかけも感じられる。

稔は早く死刑を執行してほしいと、田中麗奈に頼む。
それは稔の弱さにほかならず、死の恐怖に耐えて、毎日を送ることができないからだ。

そして、死刑は本人の希望どうり執行された。
死刑執行を伝えに来た田中麗奈三浦友和は、
「人を3人殺したら、オレと結婚して家族になってくれるか。」
田中麗奈を襲おうとする。
すると、
「ふざけないでよ。あなた、それでも人間ですか。」と田中麗奈に拒絶される。
この田中麗奈の一喝がいい。
田中麗奈はこのセリフを言うと、腰が抜けて立ち上がることができなかったと言う。

そして、この映画のラスト。
三浦友和が独りでとろろそばをすすっている。
ふと思いついて、電気コードを持ち出し、新築の時に植えたみかんの木で首吊り自殺をはかる。
やがてドスンと音がして、コードが外れる。
そして、三浦友和は何事もなかったように、とろろそばをすすって終わる。

死のうとした人間が、死にきれず、何事もなかったかのようにとろろそばをすすっている。
ここになにか生きることの滑稽さ、おかしさ、ユーモアさえ感じる。
何事もなかったかのようにまた食べ続ける、ということで生がつながっていくこと、生き続ける、ということを暗示している。

この映画は、今までのホームドラマやノンフィクションのように、家長が抑圧的に家族を支配し、それによって家庭が崩壊していくさまを描いた映画ではない。
また、家父長制による家族の崩壊を社会学的に捉えて論じる映画でもない。

ヒザの抜けたズボン。
センスの悪い安物のシャツ。
無精髭とうすくなり、白いものが目立ち始めたボサボサの頭髪。
醜く太って弛緩した身体。
妻からは「あんたなんか大嫌い。ホントは最初から好きじゃなかったのよ。」と拒絶され、行きつけのスナックでは常連客に絡んで、ママからは「もう来ないでちょうだい。」と言われる。
長年通っていた中華料理店の料理が気に入らないと「店長を呼べ」と店員に意見して、その場の雰囲気を台無しにする。
どこへ行っても嫌われているんである。

しかし、最後のシーンで自殺を試みて死にきれなかった三浦友和がとろろそばをすすることによって、この映画のテーマが浮かび上がってくる。
それは「生きる」ということである。

生きる、ということは時にみじめでみっともなく醜いものだ。
しかし、そこから逃げずに人のせいにせず生き抜け、ということを日本のかつての昭和の父親の典型として、醜く年を取った三浦友和に演じさせることによって、逆説的に伝えたかったのではないか。
この映画は、主役を一家離散した父親である三浦友和にしたところに、監督の着眼点のユニークさ、面白さがある。

だから、この映画を見終わった観客が、暗くて救いようがなく後味の悪い映画だ、と感想を述べるのは当たり前のことなのだ。
監督はそういう映画を作ろうと確信犯的に計算したのだ。
そしてその試みは成功したように思われる。

キャスト全部が監督のセンスだと思うが、そのキャストが全部いい。
映画の中でそれぞれがそれぞれの人生を生きている。
さらに三浦友和はこの映画で、高崎映画祭、東京スポーツ映画大賞、日本インターネット映画大賞、ヨコハマ映画祭報知映画賞の5つの映画祭でそれぞれ主演男優賞を受賞した。

監督の生き抜け、というメッセージに、ではどのように、ということを誰も知らないし、誰からも教えてもらえない。
答えはそれぞれ自分で探すしかない。