非正規労働者めぐろくみこのブログ

非正規労働者が日々感じていることを書いたログです。

聲の形

お正月に、場末感漂う池袋の映画館で「聲の形」というアニメ映画を観た。
この映画は、「少年マガジン」に連載され、話題になった漫画である。
マンガ「聲の形」の作者は大今良時で、映画監督はを「けいおん!」などを手掛けた山田尚子である。
余談だが、今マスコミで賑わしている妻を殺害した容疑で話題になっている講談社の編集次長の男は、この「聲の形」の担当編集者だったという。
アニメファンや漫画ファンならこの漫画は馴染み深いだろうが、私はあまり良く知らなかった。
この漫画は「この漫画がすごい」とか「マンガ大賞」なども受賞し、高い評価を得ているらしい。

物語は、小学生だった主人公の石田将也は、耳の聞こえない転校生西宮硝子に興味を持つが、それがだんだんエスカレートしていく。
クラスでは、最初は新しい転校生に皆気を使うが、そのうち耳の聞こえない硝子の存在がクラスメートの間では疎ましくなっていき、クラスの中で孤立していく。
硝子はクラスの中では浮いた存在になり、女子の些細なイジメや将也の過剰な硝子のからかいに、クラスメートは黙認し、誰も助けようとはしなかった。
そんな雰囲気の中で、硝子は何回も補聴器を壊され、硝子の母親が学校に連絡する。

クラスの内情に疎い先生は、その原因を将也のせいだと断定してしまう。
障害者や自分たちとは異質なものに対する不寛容、あるいは無視、無関心ということによって硝子は傷つくが、それは結局転校と言う形で終止符が打たれる。
そして今度は将也がイジメを受けるようになる。

小学校を卒業した将也は中学、高校へと進んでも、クラスメイトたちの無視という形でイジメの対象になってしまった。
将也は学校に馴染めず、心を閉ざしてしまう。
今の学校は、上の学校に行ってもクラスカーストはそのまま引き継がれるらしい。

これが今の学校生活のリアルなんだろう。
こういうふうに漠然とクラスの空気や雰囲気が生まれ、それにほとんどの生徒が流されていく。
今の生徒たちにとって、学校や先生というのはほとんど意味がなく、教育の場として機能していないのではないかとさえ思ってしまう。
教育や学校生活に対して、一番絶望しているのは実は生徒たちかもしれない。
そして、その現実に大人たちは全く気がついていないのか。
この漫画が多くの若い人たちに受け入れられているのは、そうした学校生活が的確に描かれているからだろう。

高校生になった将也は、硝子に対する自分の無神経な振る舞いや無理解を悔いるようになる。
そして同じように、手を差し伸べることができなかったことを悔いる女子もいた。

将也はその後、別の学校に通っている硝子に再会し、物語は思わぬ方向に進んでいく。

今の世の中は、自分と異質なものや弱者を平気で叩く世の中である。
無関心を装いながら、実は人のことが気になって仕方がない。
そして、自分よりいい思いをしている人が許せない。

自分と違う他者を思いやる気持ち、理解しようとする心、分かり合えなくてもわかり合いたいと思う気持ちは、実は誰でももっているのかもしれない。
特に子供から大人になる間の子どもたちの心はまだ柔らかく、そのために時に人を傷つけ、そして自分自身も傷ついてしまう。
そういうデリケートな気持ちが細やかに描かれている。

今のアニメには必ずイジメ、引きこもり、自殺が出てくる。
これが今の学生たちの日常なのだろうか。

このアニメに出てくる将也の家族と硝子の家族は、共に母子家庭である。
窪美澄の小説に登場する家庭も、父親不在かシングルマザーの家庭になっている。
これは偶然ではなく、日本の家庭では父親不在で家庭生活が営まれている、ということなのか、それともそうして家庭環境の方が小説やドラマにしやすい、ということなのか。

この前発表されたキネマ旬報の2016年のベスト1は、「この世界の片隅で」で、一方興行成績1位の「君の名は。」はベスト10にも入っていなかった。
この2作は話題性があり、多くのマスメディアで取り上げられた。
それに比べれば「聲の形」は一部の人達の話題にはなったかもしれないが、作品的には地味だ。

「この世界の片隅で」がベスト1になったのは、作品的に優れていたこともあるだろうが、今の時代が右傾化し、戦前のような雰囲気になっていることへの警鐘の意味があるのかもしれない。
この2作とも映画館で観ることはないだろう。
しかし、この「君の名は。」は、なぜこんなにもヒットしたのか、その理由を知りたいと思う。

そのうちDVD化されたら、ツタヤで借りてみよう。