非正規労働者めぐろくみこのブログ

非正規労働者が日々感じていることを書いたログです。

新聞を読もう 「芸人式新聞の読み方 プチ鹿島

私は新聞を取っていない。
だから毎朝駅のスタンドやコンビニで新聞各紙の1面の記事をみて、どの新聞を買うか決めている。
買うのは大体東京新聞で、たまに朝日、毎日の順で、読売、産経はほとんど読まない。
図書館で新聞を読む時もある。

プチ鹿島、という芸人は芸人としてはあまり良く知らなかったが、TBSの荻上チキのSession22やJ-wave津田大介のJam the worldに出演しているのを聴いて初めて知ったのだった。
この番組でプチ鹿島が新聞ネタをしゃべっていたのが、なかなか興味深く、それでこの本を読んでみた。

原発以降からなのか、新聞やテレビは本当のことを伝えなくなった、と言わるようになった。
テレビはおもしろくないが、新聞はテレビよりは少しはマシなマスメディアではあると思いたい。
記録性があるし、抽象的な言い方をすれば、今でもまだ社会の良心を伝える媒体であるならば。
テレビは視聴率さえ良ければ、という考えがミエミエで、番組の内容も出演者もすべて同じように見えて仕方がない。
夜の深い時間に見る番組はいくつかあるが、別に見なくてもかまわないと思う。
テレビはもはや必需品ではない。
You TubeAmeba TVがあるではないか。
ネットを見れば、それで事足りる時代になった。

さて、「芸人式新聞の読み方」は新聞を愛してやまない、プチ鹿島による新聞案内ガイド、と言っていいかもしれない。

この本で、新聞各紙を擬人化して論評しているところがおもしろい。

朝日新聞 高級な背広を着たプライド高めのおじさん。
産経新聞 いつも小言を言っている和服のおじさん
毎日新聞 書生肌のおじさん
東京新聞 問題意識が高い下町のおじさん
日本経済新聞 現実主義のビジネス一筋おじさん
読売新聞 ずばり”ナベツネ

これらを擬人化しながら、新聞各紙が「安保デモ」の新聞各紙の「見出し」「扱いの大きさ」を比べたり、「社説」の言葉使いから新聞各紙の違いを鮮やかに説明している。
こむずかしいことは書かない。
あくまで下世話なことを話題にしながら、新聞に興味を持ってもらう入門書になっている。
購買数、宅配率が下がり続け、さらに経営的には広告が入らなくなったので、新聞社の経営は今は厳しいだろう。
特に若い人たちはほとんど新聞を読まない。
こんなアプローチの仕方があるなら、新聞を読んでみよう、と思う若い人たちも増えるかもしれない。

最近の新聞はまともなことがあまり書いていないように思うが、それでも新聞各紙にはそれなりに個性がある。
産経新聞は、かつては司馬遼太郎が在職していた新聞社だが、その後経営が思わしくなくなり、財界から資金援助を受け、政界財界の批判的な意見は一切書かないようになったそうである。
私は、個人的には今は産経新聞を全く読まない。
前はネットで無料で配信していたので、なんとなく読んでいたような気がするが、それも気がついたらなくなっていた。
気をつけて読んでいると、産経新聞の記事は、なんとも不可解な内容のものが多い。
それに気づいて以来、読むのをやめたのだ。
産経新聞を手にとって読むことは今は全くないが、たまにYahooで間違って読んで、しまった、と思うのは私だけだろうか。
これを新聞だと思ってはいけない。
政界財界の広報誌、ぐらいに思っていればいい。

さらに読売新聞も、文科省前川前事務次官のスキャンダルを唐突に記事にするなど、産経新聞と同じ穴のムジナになってしまった。
そもそも、読売新聞はずばりナベツネ、とプチ鹿島もはっきり書いているように、社主が新聞を私物化している新聞社である、と考えればいいのである。
かつての社主、正力太郎の時代も新聞を私物化してきた、と何かで読んだことがある。
しかし、読売新聞は、家庭欄が良かったような覚えがあり、とても残念な新聞ではある。
優秀な記者もいたが、辞めていったのも仕方がない話なのだろう。
前川前事務次官のJKバー通いの報道で、劣化もここまできたのかとがっかりしてしまった。
たしかにJKバーに通ってはいたが、それはもう文科省を辞めたあとに、わざわざ新聞の、それもわりと目立つ場所に掲載されるようなことだろうか。
この記事に違和感を感じた人は私以外でも随分多かったはずだ。
これは、加計学園問題のもみ消しのために、自民党が読売新聞に書かせた記事だろうと言われている。
新聞社が政府の言いなりになって記事を書く、この問題の大きさがこの新聞社にはわかっているのだろうか。
繰り返して言うと、今や、読売は産経と同じレベルの新聞になってしまった。
この新聞を読むことはもうないと思う。

朝日新聞は、従軍慰安婦の問題でミソをつけてしまった。
その経緯についてはこの本でも触れている。
朝日は今は何かあると、新聞他紙からいつもツッコミを入れられ、バッシングの対象になっている。
とにかく一部の人達にとって、朝日憎し、の対象にされ、慰安婦問題でいつまでもあれこれ言われるのでは、朝日もやりきれないだろう。
それでもプチ鹿島はそういう朝日に頑張ってほしい、とエールを送る。
朝日新聞は大体10回に1回ぐらいしか買わないが、それでも図書館では必ず読むようにしている。
そして、たまに朝日を読むと、いい記事だな、と思う記事があるのもたしかなのだ。
優秀な記者がどんどん辞めていき、優秀な人材が集まりにくくなった新聞社ではあるが、やはり私も頑張って欲しいと思う。

そして、普段読んでいるのは東京新聞だ。
プチ鹿島東京新聞はお気に入りのようだ。
東京新聞にはあの菅官房長官加計学園問題で執拗に質問攻めにした、望月記者のいる新聞社である。
いつも馴れ合いの記者クラブのぬるい会見の中で、1人まっとうな質問をしたのは望月記者だけだった。
この会見の様子はニュース番組でとりあげられ、大きな話題になった。
全国紙の新聞を差し置いて、一番マトモなのが東京新聞
なんだかなぁ、と思う。

その他にも朝刊スポーツ紙、夕刊紙、タブロイド紙などがSMAP解散や時事ネタを扱って、新聞各紙がどのように扱っているか、などが紹介されている。
本当にプチ鹿島は新聞が好きらしい。
とにかく朝毎読産経、東京新聞に加え、朝刊スポーツ紙、夕刊紙、タブロイド紙迄全部読み込み、新聞各紙の記事の取り上げ方や内容までチェックしている。

しかし、残念だが、新聞はすでに衰退したメディアだ。

新聞の発行部数が減ったのは、単に新聞が面白くないから、信頼性を失ったから、ということもあるだろうが、大げさに言うと、日本の家族制度がすでに崩壊した、ということが大きいのではないかと思う。

新聞は各家庭に宅配され、朝一番に一家の家長である父親が読むものだった。
だから、新聞はある意味では家父長制の象徴だったのかもしれない。

しかし、家父長制は形骸化したまま日本の家庭は崩壊してしまった。
家族が壊れた家庭で、父親の存在がなくなったので、もう新聞を読む人はいなくなったのだ。
その他には景気が低迷したり、若者の活字離れもあるだろうが、家族や家庭が失われたのだから、その象徴たる新聞が衰退の一途をたどる運命なのだろう。

小津の映画やかつてのホームドラマでは、父親がちゃぶ台で新聞を読むシーンが必ずあった。
しかし、今やホームドラマは作られない。
今の日本には家庭がない。
自民党がいくら家族は助け合わなければならない、と介護を家庭に押し付けようとしても、それはもう無理な話だ。
日本の殺人は、その大半が家族や肉親間の殺人であり、これは世界でも特異なことらしい。
親が子供を殺し、子供が親やあるいは祖父母を殺す。
そういう家族形態の中で、新聞はもういらないのだ。

私自身は、テレビも見るし、ネットで国会中継や党首対談や田原総一朗の番組を見たりする。
新聞はほぼ毎日読み、ラジオもほぼ毎日聴く。
さらに毎日Twitterをのぞき、ツィートもする。
ニュースはtweetでチェックすることが多くなった。

twitterでは、日本のメディアで伝えない海外のニュースや、日本が海外でどのように報道されているかをチェックするためで、これは日本の新聞やテレビでは報道されない。

今はネットでチェックすれば、なんとなくニュースも分かったような気がするかもしれない。
しかし、それは表面的なことで、本当のことは何も知らず、わかっていない。
いつの間にか、あることをない、と言い、記憶にないと言い、資料が見つからなかった、と言いくるめられ、自分たちのいいように強行採決をされて歪められた憲法解釈がまかり通るようになる。
本当に嫌な時代になった。

「半信半疑力」を養って、情報の波を自分の力で泳ぎ抜く、その道先案内にこの本を一人でも多くの人たちが読んでもっと気がついてほしい、と願わずにいられない。