非正規労働者めぐろくみこのブログ

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ふがいない僕は空を見た 窪美澄

窪美澄の代表作は2009年の「ミクマリ」で、女による女のためのR-18文学賞の大賞を受賞し、注目をあびた。

この「ふがいない僕は空を見た」は、この「ミクマリ」から4つの連作からなる短編集だ。

私はこの小説を2回読んでみた。

2回読んでみると、最初はストーリーのおもしろさ、読みやすさに目がいくが、本当はこの小説はもっと深いものを書いているのではないかと思った。

最初の短編「ミクマリ」は、高1の斉藤くんがたまたま行ったコミケで年上の主婦と出会い、不倫をし、そして別れるまでが描かれている。

「世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸」は、斉藤くんの不倫相手である専業主婦の里美の結婚生活が描かれている。
里美は夫と二人でマンションに住んでいる。
親子密着型の姑と夫の間で、姑は早く子供を産めと強要する。
子供を望んでいないのに、それを口に出して言えない夫。
幸福とは言えない結婚生活の中で、やがて里美と斉藤くんの不倫がバレてしまう。

2035年のオーガズム」は、斉藤くんのことが好きなクラスメイト、七菜の家族の物語。
七菜の家族は、父が無理して建てた戸建てに住み、単身赴任のサラリーマンの父と更年期障害に苦しむ専業主婦の母、そしてT大を現役で合格した兄と4人家族の物語だ。

セイタカアワダチソウの空」は、斉藤くんのクラスメイト、「セイタカ」とあだ名される団地に住む高1男子の物語である。
そして、この短編集の中で、一番印象に残った。
この小説についてちょっと説明したい。

セイタカの父親は借金苦でこの地元の沼で首吊り自殺をした。
母親は近くのアパートに男と住み、セイタカは団地で死んだ父親の母親、ばあちゃんと住んでいる。

母親はネグレストで、セイタカはほとんどばあちゃんに育てられたのだ。
生活費は、ばあちゃんの年金、母親がたまに持ってくる数万円、そしてセイタカのバイト代である。
バイトは、朝の新聞配達、夜のコンビニのバイトで、その間に学校に通っている。
団地は「貧困とか、生保とか、アルコール依存症とか、幼児虐待とか、自己破産とか自殺、一家心中が日常生活の中でひんぱんに起こる場所」なのである。
団地の住民たちは、片親家庭であったり、独居老人であったり、または両親が揃っている家族であっても、その家族という入れ物はすでに壊れている。
団地の子供たちがコンビニなどで常習的に万引きを行う様子が描かれている。

セイタカはコンビニのバイト先で、元予備校教師の田岡さんに勉強を教えてもらうようになる。
セイタカの通っている地元の高校はまわりから「バカ三高」と呼ばれる落ちこぼれの行く高校なので、勉強がわからない生徒たちは授業中もほとんど寝ているような学校だ。

コンビニの休憩時間に中学からの復習プリントを毎日やり続けていくうちに、成績がうなぎ登りに上がり、セイタカは学期末試験で学年四位になった。

コンビニのバイト先には、同じ団地に住むクラスメイトで幼馴染のあくつという女子高生がいた。
ある時、田岡がセイタカとあくつを誘い、「貧困層のための塾を作りたいので協力してほしい」という。
田岡は金持ちの子どもたちが通う予備校で、多くの生徒たちをいい学校に入学させた実績と人気のある予備校講師だったが、事情があって講師を辞めたのだ。
あくつは最初田岡を警戒し、よく思っていなかったが、田岡の要求をあっさり受け入れてセイタカと一緒に勉強するようになる。

一方、セイタカの家のばあちゃんの認知症が進み、旺盛な食欲でセイタカの食べる分のごはんまで食べたり、徘徊をするようになる。
ある日、米びつの中に入っていたセイタカの預金通帳や現金、そして米びつの米までが突然なくなっていた。
母親の住んでいたアパートに行くと、どこかに引っ越してしまった後だった。

お米もお金もなくなったセイタカは、頼れる大人が誰もおらず、一体どうしたらいいのか途方にくれる。
ばあちゃんのボケはさらに進み、バイトの途中でばあちゃんが行方不明になった。
深夜のばあちゃんの失踪のためにあくつや同級生の助けを借り、やっと河原の先の野球場で見つける。
バイトを途中で抜け出したセイタカを心配した田岡が、セイタカたちを車で迎えに来た。
田岡はばあちゃんを知り合いの医者のいる市民病院につれていく。
セイタカはなぜ田岡が自分のためにこんなに良くしてくれるのかがわからなかった。

しかし、田岡はセイタカの前から突然姿を消してしまう。

そして最後に、セイタカは坂道の途中から街を見下ろし、「死ぬほど勉強して、みんなが驚くような大学に入って、この街を出ていこう」と決心して終わる。

私はこの小説を政治家の人たちに読んでほしいと思う。
ここに描かれている家庭は日本では特殊な家庭ではない。
これが今日本の貧困層の家庭だとわかってほしい。

日本の子供の貧困は6人に1人、といわれている。
こども食堂が一部で話題になっているが、実は小、中、高校生で、十分な食事を与えられていない子供たちが多い。
この小説でもセイタカがお金がなくなって、ご飯だけを炊き、お湯に味噌をといただけの食事を作る場面が出てくる。
絶対的貧困は分かり易いが、問題は外から見えにくく、本人たちも声を上げない相対的貧困が問題なのである。
15歳はまだ子供だ。
そしてまだ親や回りの大人たちの庇護の下でなければ生きていくことはできない。
しかし、セイタカのように親から捨てられた子供は、一体誰に相談すればいいのだろうか。


最後の短編「花粉・受粉」だけ、高校生の視点ではなく斉藤くんの母親の視点で、シングルマザーとして子供を育てる母親の葛藤が描かれている。

この小説に描かれる4つの家族は、今日本の社会が抱えている問題を表している。

里美と夫はマンションに住む子なし夫婦。
そして七菜の家は単身赴任の父と専業主婦の母、引きこもりのT大生の兄の4人家族で戸建てに住んでいる。
セイタカは貧困層が住む公団住宅にばあちゃんと住んでいる。
そして最後に出てくる斉藤くんの家庭はシングルマザーである助産婦で職住一致である。

里美は姑から早く子供を産め、と強要され、姑の女は子を産むもの、という旧来の価値観に、現代の女たちも蜘蛛の糸のように絡めとられてしまう。
ここには男女役割分担による家父長制度が、姑の力によって発揮される。
姑がこの夫婦を支配する家長なのである。

七菜の家庭は一般的なサラリーマン家庭である。
七菜の兄は、T大に現役で入学したが、燃え尽き症候群で大学入学後新興宗教にハマり、その後引きこもりになってしまう。
七菜は小さい頃から「七菜は可愛いからいいのよ」と言って育てられた。
言い換えれば、男に選ばれる可愛い女がよい、という考えを持った両親に育てられた。
七菜は斉藤くんのことが好きだったが、斉藤くんは母親の苦労や社会が少しわかっているので、七菜のような女の子では物足りず、だから人妻である里美に惹かれたのだろうか。

里美や七菜の家庭は、親や姑の努力によって、何とか家族の形を保っている。
しかしこれらの家庭はやはり問題があり、いびつには違いない。
その一方、セイタカの住む団地では、すでに家族という枠組みは壊れている。
団地の住民たちは片親世帯であったり、家族という形があっても親のネグレストや虐待が日常的に行われ、家族としてはすでに機能していない。

最後の短編「花粉・受粉」は、斉藤くんの両親の物語だ。
斉藤くんの母親は自由気ままに生きている夫を最初は面白がっていたのに、いざ結婚して子供ができてみると、定職につくことができず、妻子を養うことができない。
そんな夫をを強く責め、夫婦喧嘩が絶えず、最後に父親は家を出て行く。
夫が風のうわさで生活が苦しいと聞くと、金銭的な援助をしてしまうが、これで最後にしてほしいと言う。
父親は、自分のダメさ加減がわかっているので、家を出ていってから、子供に会うことができない。
ここでは今までの家父長制度の父親と母親という役割から降りることができない夫婦の破局が描かれている。

この小説に出てくる男たちは、自殺による父親の喪失、あるいは単身赴任による父親の不在、妻子を養うことができない父親失格の男、そして父親になりたくない男、父親になれない男が出てくる。
結局この小説に出てくる男たちは存在感がないか、どうしようもない男たちなのである。
この小説の題名は「ふがいない僕は空を見た」というが、不甲斐ないのは斉藤くんやセイタカだろうか。
家族に負担を強いる単身赴任や里美の夫のように奴隷のように働かされても会社に文句ひとつ言えない日本の男たちではないか。

窪美澄のテーマは「生と性」である、と言われるが、この小説の一つのキーワードは「生殖」である。
斉藤くんの家が助産院であり、最後の短編では出産のために訪れる女たちや出産など、助産院の様子が丹念に描かれる。
窪美澄の描く性は快楽や金銭を媒介とした商品としての性ではなく、その底にあるものは「愛」である。

旧来からの家族制度はとうの昔に崩壊し、家族の形は壊れている。
しかし、それがわからない。
かつての家父長制度の幻想をいまだに持っている人たちは、女性の生き方を固定化し、鋳型にはめ込もうとする。
そして、そのために多くの女たちが苦しんでいる。
シングルマザーとして斉藤くんを育てている斉藤くんの母親もそうだろう。
しかし、そのしわ寄せが子どもたちにいっているとしたら、この国に未来はないのではないか。

社会は思っているよりずっと早い速度で変わっている。
今まで信じていたもの、大切だと思っていたものがいつの間にか切り捨てられたり踏みにじられたりする。
それは愛であるとか、信頼であるとか、人と人との結びつき、思いやりであるかもしれない。
この小説を読むと、人が生きていくことで喪っていくことの切なさや悲しみがじんわりと伝わってくる。

そして、今この空の下で生きている子どもたちが、どうか幸せに生きていく事のできる国でありますように、と祈らずにはいられなかった。