非正規労働者めぐろくみこのブログ

非正規労働者が日々感じていることを書いたログです。

わたしを離さないで カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロは、「日の名残り」で世界的に大ベストセラーになり、その後映画化され、映画はアカデミー賞を受賞した。
名前の通り両親は日本人で、5歳まで長崎で育ち、その後イギリスに渡り、イギリス国籍を取得した。
小説は読んだことはなかったが、著名な作家であることや小説の題名などは知ってはいた。

そのカズオ・イシグロ原作の「わたしを離さないで」がTBSでドラマ化されている。
たまたまドラマ化される番宣を見て、なんとなく興味がわき、小説を読み、映画化されたDVDを借り、さらに途中からドラマまで見ている。
ちょっとした「わたしを離さないで」フリークである。

そして、この小説が本当におもしろい。

この小説の主人公キャシー・Hは女性で、現在31歳の介護人である。
その彼女の視点を通して、自分の過去を回想する小説だ。
前半の物語は、彼女が育ったイギリス郊外にある寄宿舎「ヘールシャム」でのエピソードが延々と語られる。
それがやや退屈だが、後半の物語の伏線になっている。
広大な敷地内で男女の子供たちが寄宿生活を送っている。
その子供たちの日常生活や学校生活の紹介。
子供たちは厳格にしつけられ、学業以外もスポーツや美術、音楽と、先生たちが心を砕いて子供たちを教育していることがよくわかる。
特に印象的なのは、かんしゃく持ちのトミーとの友情である。

そして、ある時キャシーは月に一度の販売会で音楽テープを手に入れる。
販売会は、外の世界と接触できない子供たちにとって、唯一外の世界の品物を手に入れる貴重な機会である。
それは、「夜に聞く歌」というアルバムのカセットテープだ。
その中の1曲のフレーズに「ネバーレットミーゴー、・・・・・私を離さないで」が出てくる。
「never let me go」と歌うこのフレーズがこの小説の原題である。
そして、このテープのフレーズがこの小説の大きなモチーフになっている。

16歳になり、寄宿舎を卒業すると、キャシーはヘールシャム出身者8名と一緒に、コテージに移動する。
そこにはかつて淡い友情を感じていたトミーと、その恋人のルースもいた。
このコテージでは、ヘールシャムと同じ環境で育った数人の男女で共同生活をするのである。

ここでネタばらしをしてしまうと、ヘールシャムの子供たちは、実は人間の細胞から作られた複製のクローン人間である。
彼らは成人すると、人間の臓器提供者となる運命なのだ。
寄宿舎を卒業した彼らは、コテージに集められ、共同生活をする。
そして、数か月の猶予期間の後、提供者の介護人となり、それが終わると臓器の提供者になり、最後に死を迎える。

彼らは子供を産むことができず、老年はおろか、中年かそれ以前に命を終えることもある。
生まれた時から自分の運命は決められているのだ。

その後、キャシーは介護人の研修を受け、コテージを後にする。
カップルだったトミーとルーシーも恋人関係を解消し、別々の施設に移る。
キャシーは優秀な介護人となり、さまざまな医療センターを訪問するようになる。
そして、ある時提供者となったルーシーに再会する。
ルーシーは何回かの提供を終え、体が衰弱していた。
トミーの消息を知っているルーシーは、今度二人で訪ねようという。
自分の死期を感じていたルーシーは、本当はトミーとキャシーがお互いにひかれあっていたのを知っていた。
ルーシーはそれを知っていて、トミーに近づき、付き合っていたのだ。
ルーシーはそのことを謝り、そして本当に愛し合っているカップルならば、3年間の猶予期間を与えられ、二人で住むことができるという噂を教える。
そして、その手続きのためにすでに廃校となったヘールシャムの当時のマダムの住所を教える。

ルーシーの死後、付き合い始めたキャシーたちは、二人でそのマダムの家を訪ねた。

マダムと当時のエミリ先生に会い、ヘールシャムの知られざる事実を二人は知る。

やがてトミーは死亡し、一人残されたキャシーは最後の介護人の仕事を終え、やがて提供が始まるところでこの物語は終わる。

キャシーとトミーがマダムを訪ねた時、そこでまたこのカセットテープの歌「ネバーレットミーゴー、オーベイビー、ベイビー、ネバーレットミーゴー」のフレーズが出てくる。

この曲にキャシーは母親の子供に対する強い愛情を感じているが、マダムは古い世界を抱きしめて、心の中にある消えつつある世界を見ている。

人間の臓器提供者となる運命が決まっているのなら、なぜヘールシャムの先生方は、「感受性豊かで理知的な人間に育てること」それに心を砕き、そのために企業や政界に働きかけ、寄付を募ったのだろうか。
彼らを心から愛し、よき人間になるように導きながら、一方では彼らをおぞましく思い、恐怖感と戦いながら彼らを教育した。

先生方は常に子供たちを観察し、この子たちに魂があるのだろうか、心があるのだろうかと自問自答していた。
生殖機能がなく、将来は人間の臓器提供者となって生を終える子供たち。
それではこの子供たちは何のために生まれてきたのだろうか。
ここには作者が生きる、ということの意義を逆説的に問いかけているように思う。
私たちは何のために生きているのか。
なぜ生を与えられたのか。
生きる、ということはどういうことなのか。

人の命には限りがあり、本当は生まれなかった命、生存することができなかったはずの命が、医学の進歩とともにそれが可能になった。
生殖、命の問題は、本当は厳しい倫理観によってコントロールされるべき問題だろう。
不妊治療や男女の産み分け、凍結卵巣によって生命が誕生する事例も最近では報じられている。
しかし、それが本当に人間を幸福にすることなのだろうか。

この小説は、小説の巻頭で1990年代イギリス、とことわっている。
しかし、この小説が発表されたのは2005年である。

DVDもドラマの冒頭でも、最初に寄宿舎での子供たちが出てくる。
どの子供たちも無垢のかわいらしさが、その背後に隠されている事実や運命のむごさに心が痛む。

今世界では子供は商品として流通し、それは臓器移植のためであったり、児童売春や養子縁組や過酷な環境下での児童労働が目的であったりする。
民族の紛争や内戦が続いていたり、日本では幼児虐待が後を絶たない。
現代は、人間の命、子供たちの命がこんなに軽んじられている時代なのかもしれない。

作者は、そうした臓器売買のビジネスに対する警告や医学の発達により、生殖や命に対する意識について、警鐘の意味も込めているのかもしれない。

人間の命、そして医学と生殖の問題、さらに生きる、ということの意味を問い直す、これらがこの小説のテーマのように思う。

小説と映画、ドラマは全部違う。
映画は小説の意図を汲みながら、映像には映像の独特な世界観が広がっている。
張り巡らされた有刺鉄線に絡んだ白い紙が風でパタパタと揺れている。
そこには人の命まで管理する人間社会を現しているのだろうか。