非正規労働者めぐろくみこのブログ

非正規労働者が日々感じていることを書いたログです。

市民運動と国民会議

アベノミクス第2ステージ、新三本の矢の目標は、

 戦後最大のGDP600兆円
 希望出生率1.8の実現
 介護離職ゼロ

だそうである。

その目標を実現させるために一億総活躍国民会議、というのが設立された。
民間からは15人のメンバーが選ばれたが、労働者側が全く入っていないことが話題になった。
しかし、一方では選ばれたタレントの菊池桃子氏の発言が話題になっている。

菊池桃子氏の発言は、

1億総活躍のその定義につきましては、ちょっとなかなかご理解いただいていない部分があると思いますので、私の方からは、1つの見方として、言い方として『ソーシャル・インクルージョン』という言葉を使うのはどうでしょうかと申し上げました。ご存じのとおり、ソーシャル・インクルージョンというのは、社会の中から排除する者をつくらない、全ての人々に活躍の機会があるという言葉でございまして、反対の言葉は、対義語は「ソーシャル・エクスクルージョン」になります。

菊池桃子氏はご存じのとおり、アイドルタレントとして活躍し、その後結婚して子供のいる俗にいうママタレである。

競争の厳しい芸能界で今も活躍している、というのは考えてみたら大変なことである。
芸能界で生き残っていく、ということは、自分の芸能界での立ち位置はどこなのか、常に冷静に判断していかなければならない。
若い時から変わらない容姿を保ち、見えないところでかなり努力している結果だろう。
芸能界的ゴシップで言えば、離婚をしたシングルマザーであり、障害児の母である。

「社会の中から排除するものを作らない」という考え方は、人の痛みがわかる人だから言える言葉だ。

しかし、残念なことに、この国民会議の内容は総花的で、具体的に何をする国民会議なのか、よくわからない。
よく新聞に書かれているように、内容が他の省庁の仕事がダブったり、すでにある委員会の内容とダブるところが多い。
これで具体的な結果や成果を上げることはできるだろうか。

具体的にテーマを絞り込んで、その分野のNPO法人市民運動家や当事者から意見を聞くことが大事なのではないか。
行政としてここまでの支援をお願いしたいとか、こういうところが困っている、という意見を吸い上げて、具体的な方策を立てることである。

なんだか話題づくりで終わってしまうような気がする。

民主党政権時、湯浅誠氏が年越し派遣村の責任者となり、それなりの成果を上げることができたのは、湯浅氏がそうした市民運動を長年やってきた経験があったからだ。

私はこうした市民運動というのは、これからの社会ではすごく大事なことなると思う。

日本の社会は、今まで「お上に意見を言ったり、たてついたりしてはいけない。」と言われてきたし、するものではないと思われていた。
そして、それでも自分たちの意見を言う時は、本当に決死の思いで、それこそ死ぬ覚悟で抵抗したり、意見を言ってきた。
そしてそれは特殊な人たちのこと、と遠巻きにしてみてきた。
たとえば公害訴訟などがそうだ。
自分たちの生活実感の中に市民運動やデモはなかった。
その昔、ベ平連、という組織があったが、それもやはり特殊な一部の人たちだったのだろうと思う。

しかし、最近ではいろんなところでデモをする様子がテレビに映し出されるようになった。
たとえば、辺野古基地移設を反対する沖縄県民が座り込みや寝転んで抗議をし、それを権力者側である国が力ずくで取り押さえる様子がテレビで映し出されている。
すると、当事者でない私でも、ここには民主主義のかけらもない、ということがよくわかる。

市民運動やデモは、その意見を言う相手である国や企業、組織と、常に敵対関係にあると思っていた。
だから話し合いの場は設けられず、相手側である権力者が一方的に強硬手段に出るか、最後は裁判にかける方法しかない。
それはとてつもなく、精神的にも金銭的にも体力を消耗することである。
よほどの覚悟がなければできない。
だから市民運動はやってもムダ、しょせんデモで世の中は変わらない、と思っていたのだ。
しかし、これはおかしいと思うようになったのは、「首相官邸の前で」という映画をみてからだ。

原発デモを行ってきた市民グループが、最後に時の政府と話し合いの場を持つ。

考えてみれば、これは日本の歴史史上初めてのことだ。
市民運動は、国や組織と敵対する関係ではない。
お互いがお互いの意見を持ち寄り、話し合い、問題を解決する場を持つのが民主主義ではなかったのか。
民主党政権は、次の選挙で敗れてしまい、再び政権の座に就くことはできていない。
しかし、民主党政権時に、市民と政府が初めて同じテーブルにつき、国民のための政治が始まるところだったのだ。
日本は幸運にも戦後70年間、戦争をせず、平和に過ごすことができた。
戦争や内戦、テロは遠い国のことだった。
それは考えてみれば、世界の中ではとても稀なことだったのだ。
大切なものは、失って初めて気が付く。
そしてそれも民主党政権が崩壊した後、蜃気楼のようになくなってしまった。

You tubeを見ていたら、山本太郎氏の講演の様子が写っていた。
そこでは「皆様の伝書鳩山本太郎です。」と、一見おちゃらけているように話している。
山本太郎氏は政治家らしくない。
天皇陛下に手紙を差し上げたり、国会では一人牛歩をしたり、喪服を着て、投票する時に焼香するようなしぐさをしたりする。
ある一部の議員からすれば、国会を冒とくしている、とも感じられる。
山本太郎氏の振る舞いは、一般の国民目線の振る舞いである。
だから、これらのパフォーマンスはギリギリのところで国民から支持されているんである。

労働者が望んでいる社会はどんな社会なのか、非正規労働者が減ればそれで問題が解決するわけではない。
保育園をつくって、待機児童が減れば出生率が上がるわけではない。

国民会議を作るなら、生の国民の声を聴く組織を作ってほしい。
今の日本は、不思議なことに政治家より一部の一般市民の方が意識が高くなり、さらに年齢が高い人達よりも、若い人たちの方がモノがよく見えていたりする。
政治家はもっと国民の考えや意見を聞いてほしい。
自分がいいと思う政治が、決して国民が望んでいる政治とは限らないと、政治家はなぜわからないのだろう。