格差社会
よく人を見かけで判断してはいけない、といわれるが、結局のところ「人は見た目が9割」である。
その人の服装や持ち物、言葉遣い、あとは「今は見た目はこうだけど、実は昔はxxだった」とか、本人が巧妙に自分というものを隠して演技しているかだ。
要するに初対面で人はお互いにお互いを値踏みし合う。
そしてお互いの距離をはかりながら、初対面でもコミュニケーションが円滑にいくようにふるまうのである。
相手が自分より下だと思ってバカにし、態度を変えるのはその人の人間性や品位の問題である。
人は自分が世間でどのようにみられているか、自分に対する相手の態度で推しはかる。
世間の目とは、日本では社会のことである。
酒井順子氏は、「女、30過ぎ、結婚せず、子なし」の女性を世間からどのように見られているか、自ら知性とユーモアにくるんで「負け犬」と命名したのである。
酒井氏は、世間の目というものがよくわかっているので、「その人独身?」「ぎりぎりセーフ」と言えるのである。
今は知らないが、少し前までPTAの父兄の間で子供に見せたくない番組のNo.1は「ロンドンハーツ」というテレビ朝日の番組で、「ロンハー」と呼ばれていた。
こういった番組は、子供に見せたくないと言いながら、視聴率が高く、実は大人たちがみんな見ているんである。
この番組のレギュラーはロンドンブーツ1号、2号だけで、それ以外は毎週テーマが違うので、その都度出演者が変わる。
出演者は大体男芸人、女芸人が主で、その他はタレントが数名で、出演者は固定している。
ある週の企画は、女芸人や女性のタレントが数名出て、「この中で男運が悪い人はだれか」とか「付き合うと不幸になりそうな女芸人」という内容であった。
これらのテーマを街頭でインタビューをして、その順位と理由を発表するという、まったくミもフタもない内容であった。
そのテレビ欄には、たしか「格付けしあう女たち」と書かれてあったように記憶している。
非正規職員で働いていた職場は、正規職員A、正規職員もどきB、1年契約の非正規職員C、数か月の短期雇用の非正規職員Dと、雇用形態が分かれていた。
最初、非正規職員Dとして入りたての頃、非正規職員Cの年輩の女性から、「職員は、A、B、C、Dと分かれて、カースト制ですのよ、オホホホホ」と言われてしまった。
それを聞いて「えっ、私って、不可触民だったのか?」と驚いた覚えがある。
ABの職員の仕事はほぼ同じで、CDの職員はABの職員の雑用が主な仕事で、電話に出るのはCDの職員の仕事であった。
しかし、非正規職員が質問の内容がよくわからず電話をたらいまわしにし、電話が途中で切れてしまうことは日常茶飯事だった。
電話の内容は様々だったが、実は窓口業務のミスや説明不足、事務センターの手続きの遅延や間違いによる苦情が多かった。
誤送もたまにあり「書類のうしろにぺろっとほかの会社の書類がついていたんですぅ」と言われ、担当の課に電話を取り次ぐと、「あら、やだ、またそんなことしたのぉ。しようがないわねぇ。」と言ってベテランの非正規職員Cが電話に出たりした。
時期によっては大量に送る書類を下請けに丸投げし、それによる誤送の苦情が頻繁にかかってきても、正規職員は「安い金で下請けに丸投げするからそんなことになるんだよ」と笑いながら言っていた。
間違った書類を送り付けられた人は、丸投げした下請けが誤送したとは思わないだろう。
仕事は正規職員と非正規職員で分断され、情報は上から下まで撹拌されることはない。
だから非正規職員は電話による苦情やクレーム、間違いを正規職員に指摘することは絶対になく、正規職員が知らされている情報も非正規職員には知らされないので、間違った受け答えをすることは日常茶飯事であった。
ミスは日々上書きされ、更新された。
こんな組織を利用しなければならない利用者こそいい面の皮である。
正規職員の人たちは、社会の基準とか、利用者の視点がわからないので、外からいくら叩かれても自分たちには関係ないと思っているのである。
そして、この職場では、職員AB、C、Dと、雇用形態により色分けされた座席表がご丁寧にも各個人に配られていた。
白河桃子氏の「格付けしあう女たち −女子カーストの実態―」を読むと、女性のグループによるカースト制について書かれている。
この女子カーストの物差しは「恋愛カースト」「外見カースト」「社会的ステータス」であるという。
彼氏がいるかいないか、自分にどれだけ手をかけているか、化粧やおしゃれが女性目線でカーストが決まるという。
「社会的ステータス」というのは夫や子供のステータスではかられる。
夫の年収、地位や企業名あるいは子供の学校などである。
男の世界では、その人間の能力や出世で測られるが、女子の世界のカーストは、複雑怪奇である。
この本の著者、白河桃子氏が、J-waveの堀潤氏がナビゲーターをしている番組、「JAM THE WORLD」に出演していたのを聞いたが、終始堀潤氏はあまりピンとこない受け答えだったのが印象的だった。
白河氏が「俗に女三界に家なし、と言って」と言うと、「えっ、三階ですか?」と聞き直していた。
すると白河氏が「女は小さい頃は親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従い、というんですよ」と言っていたが、堀潤氏は「女三界」をご存じなかったらしい。
堀潤氏は男性で、さらにNHKを辞めてしまうなど、考え方もフラットな方なので、こうした「格付け」という考え方があまりピンとこないのかもしれない。
では、女子カーストの生まれる場所はどんな所だろうか。
この本によると、
1.ヒマがある集団
2.狭くてぬるい均質な集団
3.逃れられない集団(会社、ママ友など)
4.「悪の種」が集団の中に紛れ込んだ場合
と、なぜか、オカルト集団のようである。
男女雇用機会均等法により、男性と同じ仕事をする女性ではなく、「成果や実力が問われず、差が明確ではない」女子社員が多くいる職場では、長くいる女子社員がはお局様として、女子社員を束ねていくようになる。
その女子社員が派閥を作り、「その人なりのルールや物の見方、格付けの仕方を周囲に押し付ける」人がいると、それが「悪の種」となるのである。
自分が一番で、自分の思い通りにならないと気がすまない、「争い事やもめごとを作るのが大好きなタイプ」であるという。
非正規労働者で勤めた職場は、特別女子カーストがあったわけではないが、職場そのものがカースト制だったので、まさに上のような、どよんとよどんで狭くてぬるい職場であった。
今は、3人に1人が非正規労働者という時代になり、正規社員になる、というのは椅子取りゲームのようである。
だから、一度手に入れた正規社員の椅子は何が何でも死守し、よほどのことがない限り今の職場にしがみつく。
あの職場の正規職員の人たちは、みな自分の生活を守ることに必死だったので、自分の仕事に愛情や情熱を持っている人は皆無だった。
どんな職場にも一人は皆から嫌われる人がいて、非正規職員の女性から「大きらい、あの女」と言われていた女の人がいた。
裏では、自分の仕事以外の雑用は一切しないとか、非正規職員に対しては露骨にバカにするような態度をする、と言われていた。
しかし、「大きらい、あの女」と言って正規職員Bが嫌われたのは、その職場にしがみつくさまが他の正規職員と比べてもあまりに露骨だったからだと今にして思う。
もう孫もいて、年金ももらっている非正規労働者の女性たちは「ここはこういうところだから仕方ないんですよ」と涼しい顔をしていたが、さすが「女三界に家なし」と言われて育った女性は強いんである。
ここに書かれている「女子カースト」というのは女性の限られた狭い世界の中での価値観でしかない。
だから、こうした狭い世界の中にいる人たちにとっては身につまされることだろうが、そういった世界に関係のない人たちやそういう価値観を理解できない人から見ると、あまりピンとこないだろう。
女性たちが狭い世界の中でお互いがお互いをマウンティングし合う背景、あるいは格付けし合う関係はなぜ生まれたのだろう。
上野千鶴子氏の「女たちのサバイバル作戦」の帯には「追いつめられても手をとりあえない女たちへ」と書かれていたそうである。
私はこの本をBook offで買い、帯がなかったので知らなかった。
この本は、「私たち女たちは、なぜ手を取り合えなかったのか」を「ネオリベ改革の時代」の30年の歴史について、自戒を込めて書かれている。
日本の新自由主義の政策は、格差社会を作り出した、とよく言われる。
上野千鶴子氏はネオリベ改革は結局のところ「差別と選別」の世の中を作り出してしまったという。
この本の第9章では「ネオリベから女はトクをしたか?」の最後に「フェミニズムはなぜ有効な闘いがくめなかったのか?」の問いかけに「ネオリベ改革がもたらした女の分断、つながる必要があるのに連帯できない女性の状況が原因と思えてしかたがない」と書き、「フェミニズムを聞いたことも見たこともない若い女性たちは、自分たちの力を、他の女とつながるためにではなく、他の女を出しぬくために使っていると思えてならないのです。」と結んでいる。
狭い集団の中で自分と他人の細かい差異を見つけてマウンティングしあい、弱者がさらに弱い弱者を叩く、弱者同士がつながりあうことなく分断する。
世の中は勝ち組と負け組に分かれ、負け組は引きこもるか自殺するか、あるいは犯罪者になるか。
勝ち組になっても、自分を責めて心を病んでいく人も多い。
今の若い人たちにとって、今の日本は生きることも死ぬこともできない、生きることが困難な時代だろう。
格差社会というのは、人間がどんどん劣化していき、日本という国が内側から壊れていく社会のように思う。