非正規労働者めぐろくみこのブログ

非正規労働者が日々感じていることを書いたログです。

大いなる沈黙

たしか8月だったと思うが、深夜のNHKのテレビを見ていたら、若者の自殺についての番組を放送していた。
司会はお笑い芸人の雨上がり決死隊の宮迫で、20代の男女の若者が出ている。
他の出演者にはフリーアナウンサー小島慶子や、お笑い芸人のフットボールアワーの岩井(ブサイクな方)が出ていた。
そんなに熱心に見ていなかったので、はっきりしたことはあまり覚えていない。
その中で印象的だったのが、岩井がついネットで自分のことを検索してしまうという。
「おもろない」とか「後藤だけでええやん」とか書いてあるのを見ると、気になり、テレビに出ている時もその言葉が急に頭に浮かんだりするという。
私は岩井の方が好きなんだけどな。
20代の女性が、Face Bookでフォロワーが100人いても、だれも友達ではない、と言う。

「生きるのがつらい」と書いても、帰ってくるのは「いいね」の一言。

就職や学校生活、恋愛や結婚も、ついつい人と比べてしまう。
今はSNSで友達同士がつながって、プライベートの情報も手に取るようにわかる。
それを見るのがつらいので、全部のデータを消してしまった人もいた。

実は、私はこうしたSNSをあんまり信用していない。

そんな人たちの話を聞いていたら、その少し前に見た、岩波ホールで上映していた「大いなる沈黙へ」という映画を思い出した。

この映画は、フランスアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院の日常を描いたドキュメント映画である。
今までほとんど取材を許されなかった修道院だが、監督は撮影を申し入れ、許可されるまで16年も待たされた。
やっと撮影許可を得たが、内部を撮影できるのは監督一人しか許されなかった。
撮影の半年間、監督はこの修道院の修道士たちと生活を共にしたのだ。
完成されたこのドキュメンタリー映画は、サンダンス国際映画祭をはじめ、多くの映画賞を受賞し、大きな反響を呼んだ。
日本公開は世界で公開されてから、9年たった今年の8月だった。

何故今、なんだろう、と思う。

このタイミングで日本に上映されたこと、あるいは撮影が許可されるまでの年月を思うと、なぜ、今?と疑問に思わずにいられない。

修道士たちの生活は、神にすべてを捧げ、ただただ祈るだけの生活である。
社会の全てのしがらみや肉親、友人たちとの縁を絶ち、この修道院の門をくぐるのである。
生活は質素で、ほとんどが自給自足の生活である。
冬は雪が降り、コンクリートの石の建物は、十分な暖房施設が施されているとは言い難く、修道士たちが修道服の下にたくさんの衣服を着ていたことからもわかる。
日常ほとんど会話を交わすことはないが、広大な修道士たちの教会の敷地内で、冬に降る雪で斜面をスキーをするのが娯楽のようである。

これらの修道士たちの表情を、監督は一人ひとりをアップで映し出す。
長くこの修道院で暮らしている修道士たちのまなざしには迷いがなく、まっすぐにカメラを見据える。
だが、つい最近修道院に入ったばかりの修道士は、カメラの前で視線が泳いでいる。
修道院には入ったが、それでもまだいろんな心の葛藤があるのだろうか。

そして、最後に失明をした修道士の言った言葉が印象的だ。
「私は光を失ったことで、神に近づけたように思え、とてもうれしい」という。

私たちは、ついつい人と比べてしまう。
そして自分の中で相手と自分に優劣をつける。
自分の欲望を満たすこと、豊かになることで幸せになれると信じてきた。
お互いがお互いをマウントし、自分がひとより上だと思いたいし、上になりたいと思う。
豊かになったり、有名になったり、権力を手に入れることは、努力をした結果、である。
しかし、それが目的となり、そのためにだけに競争し、いつもいつも人と自分とを比べる人生。
そしてそのために心が折れてしまうなら、それは本末転倒である。

しかし、それがわかっていても、そういう社会と違うところで生きていくことはむずかしい。

人と自分を比べない。
あるいは人を羨まない。
欲望から自由になれれば、もっと幸せになれるのだろうか。

この修道士の生活は、決して豊かでも自由でもなく、生活は厳しいと思う。
神にすべてを捧げて生きることで心の充実や幸せを感じる境地に到達するのは、やはり生半可なことではないだろう。

私はこの映画で、この前読んだ佐藤優氏の本の中の「受肉」ということを思い出した。
この修道院での生活は、普通の私たちの生活の対極にあるものである。
自分のすべてを神にささげることにより、全ての欲望から自由になる。
その生き方はある意味では崇高で気高いものかもしれない。
一方、私たちの生きている場所は、常に人と自分を比べ、あるいは比べられ、そして競争を強いる愚かでくだらない社会だ。
しかし、この映画は、私たちと違う対極にある生き方を知ることで、実は私たちはこのくだらない堕落した社会で生きる、ということの意味を、まるで合わせ鏡のように考えさせられる映画のように思う。